安倍晋三銃撃事件 ハン氏ドイツ人記者の考察
命の行進二〇二二年を歩いて
南無妙法蓮華経
3月5日福島県いわき市湯本の古滝屋旅館内にある「原子力災害考証館」でオープニングイベントを開催しました。
一昨年、国が53億円かけて建てた「原子力災害伝承館」を、昨年の行進のあと見学した時は、原発事故の展示内容の薄さにがっかりしました。その時思ったことは、国や大きな組織の意向が入り込まない、草の根の民間で作る資料館が無いことは残念だなと思っていたので、今回、個人個人の想いによって作られた考証館から行進が始められたことは大変意義深かったです。
古滝屋16代当主であり考証館館長の里見さんには行進団の宿泊までご供養頂き、その懐の深さに考証館が今後発展して行く事を想像しました。
命の行進も15年目を迎えました。今年も福島の方達と新しいご縁が生まれ、共に歩いてくれたり、宿のお世話を頂いたりと、良縁を結ぶことが出来ました。
小学五年生の“あっちゃん”は猫の保護活動している方で、母の藁谷さんと共に、福島と東京で歩いてくれました。南相馬市小高出身の佐藤さんはお姉さんを津波で亡くし、震災後は小さな子供達と転々と住む場所を変え、(子供が小さくて避難所にも滞在できなかった)今はつくば市に住み、宿や食事のお世話や休日に家を開放して下さったり、親身にお世話下さいました。
県職員の小笠原さんは初日共に歩き、その後も有給をとって一緒に歩いて下さいました。
今年初めて福島第一原発の立地地域である双葉郡を縦断しました。その中でも富岡町、大熊町、双葉町はボロボロになった灰色の家々と伸びきって枯れたきつね色の草が廃墟となった家の庭を覆っていました。
なかには、窓ガラスが割れ、散乱した家の中が見える家もありました。福島県が把握している県民の避難者は3万3365人です。その殆どがこの地域の方達であろうと思います。
原子力災害は一瞬で人間の世代を超えて積み重ねてきた営みを根こそぎにしました。目の前に広がる人気の無いゴーストタウンを生み出したのは紛れもなく私が育てられた都市の裕福な生活に起因していると、失ったものの大きさ、都市生活が奪っているものの広範さを自身に突きつける為に私は毎年、福島を歩いているのではないかと思いました。
3月16日震度6強を観測した地震の時、私達はいわき市勿来のキリスト教会にお世話になっていました。一階の聖堂で休んでいた時でした。ゆっさゆっさと揺れはじめ、まるで船の上で波に揺られているような感じでした。寝ぼけていたこともあり、どうして良いか分からず、とりあえず地震も収まり呆然としていると二階で休んでいた牧師さんが降りてきて、「津波が来ますので、これから避難します」という様なことを言われ、まさかとは思いましたが、頭陀袋と寝袋を持ち、車に乗り込み高台の小学校へと避難しました。避難するまでは心臓の高鳴りが続き、もし津波が来たら明日からどうなってしまうのだろうと考えながら車を走らせました。
多くの車が校庭に並んでいました。一時間弱ほど待機して、「もう大丈夫でしょう」と牧師さんが言われたので私達は教会に戻りました。
とても貴重な経験をさせて頂きました。震災の恐怖と不安を一瞬でも体験した事で、恐怖と不安はPTSDのようにしばらく残る事を経験させて頂きました。あの震災、原子力災害、避難生活などを経験された方達が11年経った今でも、心に傷を抱えていることを思うと、“忘れてはいけない”と思いました。
茨城県に入りました。北茨城市の港町をいくつか通り過ぎました。三.一一と言えば東北三県が被災地となっていますが、津波は差別なく茨城も千葉も襲っています。
行進の音を聞き、顔を出してくれる茨城の人達も、合掌される方、「ご苦労様」と声をかけてくれる方もいて、人の温かさを感じらました。茨城県も他県の例にもれず、人気のない地域が多かったですが、江戸時代の名残でしょうか、立派な門を構え、広い敷地の家が多くて驚きました。
水戸市、つくば市、東海村は民家も多く、道行く人も多くいました。
なかでも日本で最初に原子力発電が開始され、現在は東海第二原発や10以上の核施設を持つ、東海村は日本で2番目に人口の多い村で3万7000千人以上の人が生活しています。子供達が一緒に歩いてくれたことが印象的でした。
東海村内を歩いて目につくのが、新興住宅地の様にきれいな新しい家が並んでいることでした。村の予算も200億円前後と全国でもトップクラスの財政力です。
東海村に住めば税金も安く、子育て支援や高齢者福祉などの様々な恩恵が受けられるのだと思います。
そう、ただ一つ放射線事故等の被ばく危機と隣り合わせの生活と共にですが。
反核の声をあげようとしても、地域の経済活動にしっかりと組み込まれた原子力産業は簡単には抜け出せない構造となっています。毎日の生活と切り離せないからこそ、簡単には解決できないのです。
都市生活の大転換、便利快適な人間社会の方針転換こそが一番シンプルな解決策ではないかと思うのですが、個人レベルではなく、共同体として体現して、良い見本となり共感を得ていく事が必要だと感じています。
最終の27日から29日まで、東京行脚三日間を行いました。福島から禅僧の田中德雲さんと藁谷さん、あっちゃんも来て頂きました。28日には小金井で德雲さんの「11年目の福島から伝えたいこと」と行進団から「命の行進2022」の報告も行いました。40名近く参加があり、知らない顔も多く、福島の事、原発の事など、日々の生活の中で考える事が少なくなってきている、東京の人達に伝えたいとの初期の目的が叶いました。
都内では高級住宅街からトー横キッズと呼ばれる歌舞伎町に集まる家出の子たちが集まる所。中央線沿いの吉祥寺から三鷹、小金井。通勤・通学で賑わう日本橋周辺から築地(汚染水問題に関連して)ロシア・ウクライナ大使館、そして東京電力本社、国会議事堂まで歩きました。
11年という月日はけっして短いものではありません。当事者でなければ忘れるのに十分な時間です。
さて、福島県外に暮らす私達は福島第一の原子力災害の当事者ではなかったのでしょうか?
福島の原子力災害は今も現在進行形です。事故の対応費用は現在21兆5000億円まで膨れあがっています。小児甲状腺癌または癌の疑いが266人と通常の発生率の70倍も高くなっています。この中の6人(10代~20代)は東京電力を提訴しました。福島県内の報道等では、甲状腺癌は原発事故由来の放射線とは関係ないというのが主流で、放射線被害の話しをするのも憚られるような“空気”の中、勇気のある決断をした6名、彼らの心が折れることのないように支援していくことが県外にいる私達にこそ出来る事ではないでしょうか?
震災関連死は2331人を超え、福島県は他県よりも圧倒的に多いですが、これは原発事故によって避難したことに起因しています。それでいて、避難指示等の対象となった12市町村に移住すると世帯200万円、単身120万円の支援金が出るという県の政策があります。放射線被害のリスクがゼロではない地域にお金で人を呼び込むという政策には疑問を感じます。
そして、放射能汚染水の問題、政府は来春(2023年)には海洋放出を始めると発表していますが、これも問題だらけです。先ずは汚染水の放射線量を基準値以下に下げてから放出すると言っていますが、まだ7割の汚染水は基準値以下になっていないようです。政府はトリチウム水と言っていますが、トリチウム以外にもセシウム134、セシウム137、ストロンチウム90、ヨウ素129などの放射性物質が残留していた事が2018年、共同通信による報道であきらかにされました。それまで東電はトリチウム以外の放射性物質は除去し、基準を下回ると説明していたのです。
そして、その汚染水を今後約30年以上、海に流し続けるということです。どの様な影響が出るか分からないまま、一部の科学者によって設定された基準さえ守れば、どんな事でも許されると考えることは、自然界、次の世代に対して無責任な行為であり、人間の思い上がりです。この様な思い上がりや過信が原発事故の原因であり、地球規模の気候変動の原因でもあるのです。また、政府は6年前、福島県漁連に対し「関係者の理解なしに、いかなる処分も行わない」と約束しているのに、昨年、突如放出決定を発表しました。南相馬市同慶寺の田中德雲住職は、政府が一方的に約束を反故としたのに、「漁師達が復興を妨害している、お金を貰っておいて、反対している」。と等の悪い流言飛語が出回り、漁師たちが精神的に追い込まれていると、懸念されていました。また德雲住職は、「福島で起きている問題は、福島だけの問題ではない、東京に住む皆さんには、漁師さん達の汚染水放出反対の主張が決して間違っていない事を理解し、声をあげて貰いたい」。という様な内容のお話しをされました。
東京電力の圏内に住む者も、県外の私達も傍観者とならずに、電力過剰使用社会に住む一人として、責任も持って関わっていきたいと思います。
“喪失”を経験した人たちにとっての11年は目まぐるしく、新たな生活に適応するのに精一杯だったでしょう。福島の新聞では11年が経った今も、津波で母が死んだのは自分のせいだったと苦しみ、又養子先の生活に苦しみ、自殺した高校生の記事が掲載されていました。
特に東京で育った自分は、この問題の当事者であり、加害者側であることを自覚し、これからも福島を祈り、歩き、人々との出会いを重ねていきたいと思います。
合掌
「命の行進二〇二一報告文」 by 矢向由季法尼
南無妙法蓮華経
今年の「命の行進」も皆々様のご加護をいただき、有り難く勤めることが出来ました。
心より御礼申し上げます。今回も新型コロナ感染が収まらない中での行進でした。
御縁の宿泊先にご迷惑をかけぬよう、宿泊料金がかかる施設に泊まり、行進者を募らず、基本的に出家のみの参加とさせていただきました。
昨年の十一月に宮城県知事が「女川原発二号機再稼働を容認」した事、福島県の漁協や全漁連が反対声明を出す中、国が福島第一原発から出る「放射能ALPS 処理汚染水」を放出しようとしている事に異を唱え、大震災慰霊と共に撃鼓宣令につとめました。
三月五日から十日までは、仙台から海岸沿いの津波被災地、そして福島第一原発から七キロの浪江町・請戸海岸までを歩きました。
十年目の3.11 には、福島県知事へ「要請文」を提出し、地震発生時までの二時間、半旗が揚げられている県庁前で唱題御祈念いたしました。
三月十二日には、十七キロの道のりを経て郡山仏舎利塔へ初めて参詣し、石巻市へ車移動しました。
翌日から女川原発へ行進し、大震災時に市町村の中では最も死者が多かった石巻市内慰霊行進をつとめ、十六日の最終日には仙台市内行進後、宮城県知事への「要請文」を
提出し、十二日間の行程を終了致しました。
計画段階では、中心となって居られた佐藤達馬お上人は、カトマンズ御仏舎利塔建立仏事の為に参加ならず、二年ぶりに日本へ帰国された西川お上人と三年ぶりに去年帰国された池田お上人が通し行進をつとめられました。
沖縄からは「戦没者遺骨を辺野古基地埋め立てに使わせないハンガーストライキ」を共に行動された鴨下お上人と相原更紗さんが、九日から参加されました。
また、行進団の伴走車を前半は矢向涼さんが、後半は室作猛さんが運転してくれ行進を補助し、時に共に祈り歩かれました。
また、同慶寺の田中徳雲お上人様や舞踏家の小田原真理子さん、中嶋繁子さん、そして、十日の行進では石黒友大お上人様や栗原行廣お上人も加わり、二六人と参加者が集まって下さいました。
大震災から十年目ということでメディアでも注目されていたせいか、被災地を歩くと例
年よりも合掌礼拝、または震災時のお話をしてくれる方が多かったように思います。
しかし、原発再稼働や汚染水排出の話題になると口は重くなるようです。
女川町で出会った小学校六年生は「避難訓練はするけど、どうせ道路は壊れて逃げられないよ」とつぶやきました。
「住んでいるところから逃げなきゃいけないものなんて要らない」と原発からほど近い小さな浜の漁師の奥さんは言いました。
しかし沢山の交付金が原発被災地、立地地域に流れており、その言葉はかき消されていきます。自宅と隣二軒以外がすべて津波で流されたという女性は「私は女川出身だけど、あの人たちは一千万円くらいもらって船を買っているから」と言っていました。
その船も津波で流されているだろうにと思いますが、近しいほど確かではない噂が飛び交い、地域をバラバラにしていきます。
今までもこのようにして基地や空港やダム、核関連施設などの大型国策事業は推進されてきました。
妬み、欲、驕慢、疑念、疲労が渦巻いています。
町ゆく人々は眉間にシワをよせ、子どもでさえも無反応の子がおり、本当に心配でなりません。
人は、やはり大地と水と森と田畑の循環の中で命の儚さや尊さを学び、そして生かされている実感をし、感謝を生み、地域のため、後に続く者のために創造する歓びを見出さなければ、生きる力がなくなってしまうと思います。
管政権は、地球規模の気候変動危機に対応する「低炭素エネルギー」として「原発再稼働」を推進しています。
しかし、発電により解決不可能な核廃棄物を生み出すこと、被曝労働を伴うこと、発電に伴うコストが高いこと、バックアップ電源、採掘、精製、加工、輸送時の二酸化炭素排出、放射能温排水など気候変動対策としても人道的観点から見ても不適切であり、国際的にも遅れた対策です。
「要請文」を受け取られた県担当者である「原子力安全対策課」は、原発が「安全である知識」を学んだ優秀な方でした。しかし、「安全ではない知識」を学んでいない方だったように感じました。
特に福島県担当者の「放射能の知識があれば、無用な避難をせずに済んだ」という発言には驚愕しました。あまりにも被災者の心に寄り添わない、上から目線の偏った知識による言葉です。
国の意見を県民に「丁寧に説明する」業務を淡々とこなしており、県民の意見を国に理解させることを業務としていないようでした。
私達に出来ることは小さいですが、先ずは小欲知足の生活と、節電に努力する企業や自治体を応援し、働きかけて行くこと、そして何より諦めないことが大事だと思います。
行進中、道路脇に海岸に沢山のゴミを見ました。
歩く速さで物事を見ると、人の心が荒れ、孤立していることを随所に感じる事が出来ます。
また同時に、この自然や人や命の美しさにもあらためて気づかされます。
今年も「命の行進」が無事成就出来ましたこと、あらためて感謝申し上げます。
合掌三拝
「命の行進」
成田道場
矢向由季
田んぼが作られているようだ
高速道路双葉町に近づく
芽を出し始めている、紫陽花だと思う
大熊町辺り、民家は無住であると思う
住んでなさそうな家
高速道路で一番高い数値
車内から見える浪江町の風景
浪江町内 元々は民家であったろう場所
避難住宅か?
沖縄激戦地に眠る死者の遺骨は辺野古の埋め立てに使われてしまうのか?
沖縄県南部糸満市米須は沖縄戦最後の激戦地の一つだ。首里方面から逃走してきた日本軍と住民が混在し、大勢がこの地で死んだ。
なかには一家全滅という家もあり、未だに空き地が点在している。
米須には魂魄の塔という慰霊塔が在り、県内で最初に作られた慰霊碑として、県民はこぞってお参りにやって来る。
また、周辺には各県出身の沖縄戦戦没者の慰霊塔や、日本軍部隊、学徒隊の慰霊碑などが多く点在していて、公園となっている。
沖縄防衛局は今年4月、コロナ感染拡大が県内で急速に拡大しようとしている頃に、突如辺野古埋め立ての設計変更を提出した。
問題となっていた大浦湾側の埋め立ての工法の変更と土砂採取の地域を県外から県内全域にその比率を拡大した。
そこには、沖縄戦激戦地南部の糸満市と八重瀬町が含まれていた。
設計変更が発表され南部の遺骨が残る激戦地の土が運ばれると聞いた時、既にその他の工事で採石されているのに、今更騒ぐのもなんかおかしくないか?と思っていた。。。
しかし、実際ガマフヤー(洞窟を掘る人)の具志堅高松氏に現場を案内してもらうと、そんな想いはどこかへ消えてしまった。
上の写真の現場は具志堅さん達が遺骨収集をしていた場所であった。
しかし、ある日突如木々が伐採され、採石場となってしまったという。
ガマが幾つか存在し、遺骨が眠っているという。
しかし、既に立ち入り禁止になってしまっていて、遺骨収集は中断してしまった。
具志堅さんが防衛局か鉱山会社に訪ねると、会社側で遺骨の収集をするとの返答があったとのこと。
しかし、具志堅さんが言うには、遺骨と石灰岩は見分けがつきにくく、素人では難しいとのこと。
具志堅さんにもう1カ所の発掘現場を案内してもらった。
ここは糸洲だろうか? 国道沿いの何度も通ったことのある道の脇を入り、鬱蒼とした木々の中を入っていくとガマが幾つかあるところに案内してもらい、発掘された骨や桶、壺、そして砲弾の欠片などが有った。
1983年にガマフヤーを始めたとのこと。
遺骨を探すときは、自分だったら何処に隠れるかを想像しながら探すとのこと。
そして、隠れる場所にも力関係が働き、日本軍兵士の遺体は安全そうなガマで見つかることが多いらしい。また、多くの日本兵は上官から認識票を没収されて所持しておらず、個人特定が難しくなっているとのこと。
厚生労働省は沖縄の未収容遺骨概数90柱と発表している。
具志堅さんは300柱位残っているが、同じ人の遺骨を重ねてカウントしていることがあるから、300以上あると言っていた。また、遺骨一柱収集のカウント=全身の骨ではないので、遺骨はまだまだ多く残っているようだ。戦後すぐは、頭蓋骨だけを収集し数えていたという、しかし、艦砲射撃や手榴弾自決など、頭蓋骨が粉々に砕けてしまう死に方をしている場合も多く、正確にカウントするのは難しそうだ。
具志堅さん「ガマの奥に片足だけ靴を履いていない日本兵の遺骨がありました。近くには小銃があり、銃口を口に入れ、足の指で引き金を引いて自決したものです」と。
果たして、沖縄戦の戦没者の眠る地を掘り起こして、辺野古の米軍基地埋め立てに使われてしまうのだろうか?
県民の想いはどこにあるのだろうか?
平和行進で各自治体、市町村を訪ねた。
南部の土砂が使われることに反対の声を上げましょうと訴えてきたが、心に届いただろうか?
法律的には戦争犠牲者の遺骨が含まれている採石を取って埋め立てに使ってはいけないという事はない。
しかし、人間の心理として、75年前に日本本土防衛の犠牲となって眠っている死者の眠る土地を掘り返し、米軍の基地の為の埋め立てに使うという事は考え方によってはとうてい許せるものではないだろう。
いや、その様な酷い事がなされようが、気にせず、傍観していることも出来るだろう。
今の日本人というのは或いはそのような性格を持っているのかもしれない。
しかし、少しは心に引っかかるモノがあるだろう。
その様な違和感を黙殺するべきではない。その違和感は人間として正常な感情であり、その感情に蓋をし、権力者の横暴な振る舞いを看過していれば、社会が不自由になっていくことに歯止めがきかなくなってしまうだろう。
また、この南部の採石は今後、浦添の埋め立てにも使用されることを危惧する。
浦添西海岸の奇跡カーミージー(亀瀬)
意外と知られていないと思うが、那覇市には那覇港の一部を占有している米軍那覇軍港がある。(面積約56ヘクタール)
もちろん、沖縄戦で略奪した土地だ。
ベトナム戦争までは物資の運搬などで頻繁に使われていたようだが、昨今はあまり使われる事もなくなってきているようだ。
その理由としては幾つかあるようですが、一つは港の水深が浅い事、もう一つは米軍のロジスティックスの形が変わってきている事が上げられそうだ。
そんな那覇軍港は74年に条件付きの返還が日米間で合意されている。
今から約50年も前なんですね。。。
やはり、この「条件付き」というのが厄介ですね。
そんな那覇軍港の移設先の浦添西海岸は、浦添に残る唯一の自然海岸で干潟があり、岩場も砂場もあることから、多くの種類の生き物が(ジュゴンが食べる海草のリュウキュウスガモも)生息している。
先日、この海の観察会があり参加させて頂いた。
以下の写真はその時のものです。
約30名近くの近隣の人達が集まった。
コンクリートブロックは米軍基地から流れ出したものらしい。(この場所の陸側は米軍基地)びっしりと付着しているモノ達は皆生きていて、満潮になると食事をするとのこと。
一面に見えるのは海草。
コブヒトデ。珍しいらしい。
イソアワモチ。ナメクジみたい。
つい最近完成した橋。流れが変わり、陸の砂が浅瀬に堆積し、生き物の住みかを少なくしていると聞いた。
干潮の時だけ現れる干潟。
毒を持つ生き物も生息しているため、マリンシューズを履きます。
手前には湧き水が湧いていて、外の海水よりも冷たい。
この海岸を埋め立ててしまってよいのだろうか??
日米政府、沖縄県、那覇市、浦添市と行政は皆埋め立てを進めようとしている。
しかし、そんな中、もうこれ以上沖縄の海を埋め立てるべきではないと考える人は大勢いるはずだ。それは、軍事基地であるかないかを問わない。
人類がこの地球上で大きな力を手にし、人間の快適な生活のために地球に穴を掘り、山を削り、河をコンクリートで固め、海を埋め立ててきた。
しかし、この先もずっとそんなことを続けることはできないはずだ。
どの時代に於いても「どのように生きるか」というのは最も重要なテーマだ。
基地問題、気候変動、貧困格差問題、人種や性差別、種の絶滅などといった現実を前にして、あきらめに似た無力感は、日々誰もが感じていると思う。
考えない事、無視する事が、正直、この世界でうまく生きる方法でさえあると思ってしまう。
ジレンマを抱える現代の人間社会
この社会を作り出しているのは、他ならぬ私たち自身である。
多くの人が基地問題、気候変動、格差貧困や差別を大きな問題として捉えているにもかかわらず、実際のところ、私達が生きて暮らすことが、それらの問題を作り出す事に直接的、あるいは間接的につながってしまっている。
「人の役に立ちたい」「家族を守りたい」「国を良くしたい」と一生懸命に働く事が、むしろ自分達に害をもたらし、さらには地球に害をもたらし、未来を危険にしてしまっている。
これこそが現代、人類が抱えるジレンマである。
インドの独立運動から考える
「イギリスをインドの敵と見なしてはいけない」とガンディーは言った。
インドの人々を奴隷の身分に縛り付けている本当の敵を追い出す事が出来れば、イギリスはみずから手を引く、とガンディーは語った。
インドはイギリスの力に屈服したのではなく、イギリスが見せる娯楽・快適さ・便利さの魅力に屈服したと言える。
「イギリスは我らの品位を下げ、我らの本質を歪ませ、我らを埃と変わらぬ存在にした。邪悪な魔法によってではなく、軍の力によってではなく、交易と文明をひそかに食い込ませることによって。インドを征服しているのは兵隊ではない。貿易会社が行う商売なのだ」
ガンディーが考える解決策は、こうした商人達が売りつける品を拒絶し、彼らに利益を与えない事だった。インド独立運動の最大の直接行動と言われた「塩の行進」は、革命を叫んだわけではない。イギリスに塩を専売させるのではなく、インドの民による製塩を認めよ、大英帝国が来る遥か前にそうであったようにーーと訴えた。
ガンディーがずっと糸を紡いでいたのも、市民的不服従の行動だった。かつてのインドは何世紀も自分達の手で綿や麻を栽培し、羊を育てて羊毛を刈り、それを自分達で紡ぎ、自分達の布を織り上げてきた。植民地政策がそれを変えてしまった。今や原材料はイギリスへ出荷され、工場で紡がれ、そして製品となってインドに戻ってくる。インドの民はお金を出してそれを買わねばならなかったし、織物業を奪われた事で、数百万人が職を失った。産業革命前のシステム「手回しの糸車」はガンディーにとって優れた技術であるだけではなく、経済的正義という花を咲かせるための種でもあった。
「必要なものは自分の手で作り出さなければいけない。そして、自分の手で作れるもの、もしくはそれに相当するものに、満足しなければならないのだよ」
「労働の手間を省いてしまったら、それは他人の労働によって生きる事だと理解しなくてはいけない。自分は搾取に加担してはいまいかと胸に問わなくてはいけない」
<壊れた世界で”グッドライフ”を探して 著マーク・サンディーンより抜粋>
命の行進2020 福島2/29~3/11
震災から9年目を迎えた今年、コロナウイルスの世界的蔓延が原因で福島でも震災関連行事は殆どキャンセルになってしまいました。
「命の行進も中止に」という意見も出るなか、佐藤上人・矢向法尼・鴨下の3名で話し合い、歩くという決定を出しました。
6名が参加を見送られ、宿も2カ所が泊まれなくなりました。
そんな状況で始まった行進ですが、今回は「話し合う」という事をひとつのテーマとしていました。
今回、久しぶりに佐藤達馬御上人様がネパールから命の行進の為に戻られることになり、準備の段階でSNSのチャットを使い、ネパール・成田・沖縄に居ながらでも3名で話し合いを重ね、出したテーマでした。
今までの命の行進では毎日毎日、歩き終わると、お風呂や食事などに追われ、お互いに深く話し合う機会が持てていませんでした。そのため今回は行進者同士、或いはお世話になる地元の人達との、意志の疎通、深い話をもっとしていこうということになりました。
近しく親しい仲であっても意外と、深い話とは出来ていないもので、今回はマンダラワークという手法を用い、2時間、3時間かけて、自分とは何か?未来とは、分断とは、調和とは何か?というような事を話し合いました。
仲間同士、また、新しい参加者と共に、今一度、理想として掲げられている言葉や現代社会を表現するのによく使われている言葉の意味、認識を確認し合うという作業は大事だと感じました。
これからも、歩く意味、祈る意味、平和行進の意味など、参加者同士が深く掘り下げて、話し合う事で、歩くこと、祈ることの理解を深め、新しいご縁の人達とも、平和行進の意義、可能性を共有していければと思いました。
行進の出発は福島県のほぼ中央に位置する猪苗代湖から、福島第一原子力発電所が望める請戸海岸へと歩きました。福島県全土、東日本全域に降り注いだ放射性物質たちは、時間の経過と共に、降雨によって低いところへと移行し、河川へと、海へと流されていきました。
「水」への祈り、感謝と謝罪の想いを込めて、今回は出発地に猪苗代湖という福島県を代表する湖を選ばせて頂きました。
猪苗代湖を出発して6日目だったでしょうか。南相馬市で休憩していると、事務所から行進団を見た女性が暖かい飲み物をご供養下さいました。話をしていると、彼女は真言宗の豊山派の信徒さんで、宗派は関係なく歩いている姿を見てありがたかったと感じて下さったようです。
話が原発のことに及ぶと、「福島=原発になってしまった。」「原発はもう過去の事。」とお話しになり、慰霊して歩く事などは共通の話題として話がうまく運びましたが、原発の話題になると、お互いの認識や考え方にギャップがあり、話がぎこちなくなってしまいました。
今年、震災後初めて飯舘村を歩きました。飯舘村は放射能汚染が酷かったため、全村避難となりましたが、除染後も山林など人が踏み入らない場所の線量は高く、歩く事を避けてきました。2017年に避難指示が解除されました。震災前の人口は6509名の小さな村でしたが、福島一美しい村であると言われていたようです。気候が厳しいため、手間暇惜しまず、丁寧な暮らし、心を込めて、相手を思いやるという意味の“までい”という言葉文化を持つ村だったようです。 “までい”な生活を求めて都会からの移住者も多かったと聞きました。
宿泊場所には飯舘村の佐藤八郎さんという村議員さんがお話しに来て下さり、震災後の人口は1408名と発表されていますが、住民票は村に置き、村外で暮らす人も多く、実際に住んでいるのは300人位だろうと話されていました。
行進団に対して、様々なお話しをして下さった後に、「こんな小さな村ではいくら声を上げても、効果がない。是非、東京で大きな声を上げて頂きたい」とお話しになりました。
毎年参加していた「原発いらない福島の女たち」3.11の集会もコロナウイルス感染拡大を考慮し中止となりました。メンバーの一人、黒田節子さんは郡山市内で、小さな集いを開かれ、そこに命の行進も参加させて頂きました。
行進団のメンバーが各々話をする中で、「福島は希望です」と佐藤御上人様がお話しになると、黒田節子さんは涙を流されました。
最前線で行動している人は、身を削り、時間を捧げ、どれだけがんばっても、政府や権力は、こちらの望む理想を悉く打ち壊します。
そこに思い浮かぶ言葉は「絶望」「怒り」「憎しみ」であり、「希望」ではないのです。
ここ5年ほど、毎年3月10日は南相馬市小高区の同慶寺から浪江町請戸海岸へ慰霊供養の行進を続けてきました。小高区は津波被害直後救助が行われていましたが、原発爆発により救助隊が避難しなくてはならなくなり、瓦礫の下に埋まっていた、助けられたであろう命が助けられなかった地域であります。実家が請戸で、5年前から一緒に歩いていた檀家のお爺さんの姿を今年は見ることが出来ませんでした。足腰が弱ったと聞き、9年という月日の長さを感じました。そして11日は同慶寺で仏教、神道、キリスト教合同で慰霊法要を勤めました。
福島県においては、2月現在、県内に9408人、県外に30914人、合計40322人が避難を継続しています。また現在は数字には表れていない区域外避難者も多くいます。
「福島に住まない私たちに出来る事は何か?」
「福島が示す、人類への普遍的なメッセージは何なのか?」
自分自身に問い続けることを忘れてはいけないのだと思います。例え、明確な答えなどなくても、悩み、模索し続けることこそ、福島を忘れないという事なのだと思います。
福島で見た涙に対して、安易な言葉ではかたづけられない深い申し訳なさと責任感を感じました。
来年で東日本大震災発生10年を迎えます。
命の行進も来年を見据え、今から準備をしていこうという事になりました。
南無妙法蓮華経
沖縄県で発生した豚コレラ感染で1万900頭の豚が殺処分
沖縄県内の豚コレラ感染により、1万900頭の豚が殺処分された。
このことをしっかりと悲しむ必要が私たち人間にはあると考える。
毎日沖縄の二紙を確認していたわけではないが、殺処分することに否定的な言葉を見る事がなかったので、この場を借りて、一石を投じたい。
何故、殺す必要があるのか?他に方法はなかったのか?
一万頭もの豚の命を奪うということに違和感、嫌悪感、悲しみを感じた人は多く居たことと思う。
県内には約20万頭の豚が食用に飼育されているようだ。
調べてみると豚コレラは伝染力が高く致死率も高いらしく、被害拡大を防ぐために、感染の豚が出た養豚場は全ての豚を殺さなければならないこと、経済的損失は国が全額補助すること等、家畜伝染病予防法に記載があった。
何度か、何故人は人の命を奪ってはいけないのか?という疑問を目にしたことがあるが、ブッダは、「自分自身に置き換えて考えてみよう」と説いた。
自分の命を奪って欲しいと願う人はいないだろう。だから、貴方も人の命を奪うべきではない、と。
さて、これを動物に置き換えて考えてみたらどうだろうか?
やはり、動物も死を望んだりはしないだろう、そう、彼らも「生きたい」と望んでいるはずだ。
私達はせめて、その命を奪って生きているという事実を、しっかりと受け止めるべきではないだろうか?
数年前、北海道を徒歩で歩いていた時のことだ。海岸線を歩いていた時に魚の慰霊碑を見つけた。
鰊だったかホッケだったか忘れてしまったが、慰霊碑にはこの様に記載があった事と記憶している「大量に獲りすぎてしまい、多くの魚を廃棄せざるをえなかった為、ここに慰霊碑を建造する」と。
今回の豚コレラで殺処分された豚たちの為に私たち県民も祈りを捧げるべきではないだろうか?
理想を言えば、動物の幸せの為にも、地球環境の為にも、肉食はなくすべきだと私は考える。
しかし、各地域には伝統の食文化があり、豚肉も本来は嗜好品や飽食の為ではなく、生きていく為に必要な食料として、消費していたであろうことは容易に想像できる。
では、何がおかしいのか、何が不自然なのかを考えてみると、一年365日、殆ど毎日肉を食べる必要が私たち人間にあるのだろうか、ということだ。
しかも、わざわざ県外、或いは海外から輸入して、肉を食す事は、それが、輸送するコストや排出するco2、畜産の地球環境にかける大きな負担、悪化する県民の健康などを考えれば、マイナス面しか見えてこない、そう、私たち人間の美味しいものを食べたいという欲さえなければ。
現在沖縄県でも推進しているSDGsの取り組みにも、この豚コレラ問題は大きな考察を与えるものだと考える。本当に持続可能な社会とはどういうものなのか、地球規模の問題を県民としても更に考える必要があるだろう。