沖縄激戦地に眠る死者の遺骨は辺野古の埋め立てに使われてしまうのか?
沖縄県南部糸満市米須は沖縄戦最後の激戦地の一つだ。首里方面から逃走してきた日本軍と住民が混在し、大勢がこの地で死んだ。
なかには一家全滅という家もあり、未だに空き地が点在している。
米須には魂魄の塔という慰霊塔が在り、県内で最初に作られた慰霊碑として、県民はこぞってお参りにやって来る。
また、周辺には各県出身の沖縄戦戦没者の慰霊塔や、日本軍部隊、学徒隊の慰霊碑などが多く点在していて、公園となっている。
沖縄防衛局は今年4月、コロナ感染拡大が県内で急速に拡大しようとしている頃に、突如辺野古埋め立ての設計変更を提出した。
問題となっていた大浦湾側の埋め立ての工法の変更と土砂採取の地域を県外から県内全域にその比率を拡大した。
そこには、沖縄戦激戦地南部の糸満市と八重瀬町が含まれていた。
設計変更が発表され南部の遺骨が残る激戦地の土が運ばれると聞いた時、既にその他の工事で採石されているのに、今更騒ぐのもなんかおかしくないか?と思っていた。。。
しかし、実際ガマフヤー(洞窟を掘る人)の具志堅高松氏に現場を案内してもらうと、そんな想いはどこかへ消えてしまった。
上の写真の現場は具志堅さん達が遺骨収集をしていた場所であった。
しかし、ある日突如木々が伐採され、採石場となってしまったという。
ガマが幾つか存在し、遺骨が眠っているという。
しかし、既に立ち入り禁止になってしまっていて、遺骨収集は中断してしまった。
具志堅さんが防衛局か鉱山会社に訪ねると、会社側で遺骨の収集をするとの返答があったとのこと。
しかし、具志堅さんが言うには、遺骨と石灰岩は見分けがつきにくく、素人では難しいとのこと。
具志堅さんにもう1カ所の発掘現場を案内してもらった。
ここは糸洲だろうか? 国道沿いの何度も通ったことのある道の脇を入り、鬱蒼とした木々の中を入っていくとガマが幾つかあるところに案内してもらい、発掘された骨や桶、壺、そして砲弾の欠片などが有った。
1983年にガマフヤーを始めたとのこと。
遺骨を探すときは、自分だったら何処に隠れるかを想像しながら探すとのこと。
そして、隠れる場所にも力関係が働き、日本軍兵士の遺体は安全そうなガマで見つかることが多いらしい。また、多くの日本兵は上官から認識票を没収されて所持しておらず、個人特定が難しくなっているとのこと。
厚生労働省は沖縄の未収容遺骨概数90柱と発表している。
具志堅さんは300柱位残っているが、同じ人の遺骨を重ねてカウントしていることがあるから、300以上あると言っていた。また、遺骨一柱収集のカウント=全身の骨ではないので、遺骨はまだまだ多く残っているようだ。戦後すぐは、頭蓋骨だけを収集し数えていたという、しかし、艦砲射撃や手榴弾自決など、頭蓋骨が粉々に砕けてしまう死に方をしている場合も多く、正確にカウントするのは難しそうだ。
具志堅さん「ガマの奥に片足だけ靴を履いていない日本兵の遺骨がありました。近くには小銃があり、銃口を口に入れ、足の指で引き金を引いて自決したものです」と。
果たして、沖縄戦の戦没者の眠る地を掘り起こして、辺野古の米軍基地埋め立てに使われてしまうのだろうか?
県民の想いはどこにあるのだろうか?
平和行進で各自治体、市町村を訪ねた。
南部の土砂が使われることに反対の声を上げましょうと訴えてきたが、心に届いただろうか?
法律的には戦争犠牲者の遺骨が含まれている採石を取って埋め立てに使ってはいけないという事はない。
しかし、人間の心理として、75年前に日本本土防衛の犠牲となって眠っている死者の眠る土地を掘り返し、米軍の基地の為の埋め立てに使うという事は考え方によってはとうてい許せるものではないだろう。
いや、その様な酷い事がなされようが、気にせず、傍観していることも出来るだろう。
今の日本人というのは或いはそのような性格を持っているのかもしれない。
しかし、少しは心に引っかかるモノがあるだろう。
その様な違和感を黙殺するべきではない。その違和感は人間として正常な感情であり、その感情に蓋をし、権力者の横暴な振る舞いを看過していれば、社会が不自由になっていくことに歯止めがきかなくなってしまうだろう。
また、この南部の採石は今後、浦添の埋め立てにも使用されることを危惧する。