沖縄からみえる世界   地球・生命・宗教・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

香港のデモに参加している人と沖縄で出会った件

2012年、インドから日本に戻ってくるときに香港に立ち寄った。

 

4~5日程度しか居なかったけど、市街地のネオンの量に度肝を抜かれた事を覚えている。そして、アフリカ人がたくさん居たことや、インド人やフィリピン人などもレストランや家政婦として働きに来ていた。

2泊泊まった重慶(ちょんちん)マンションというビルの中にある、有名な安宿に泊まり、ベッドバグ(南京虫)に噛まれた記憶は忘れられない。

また、その他の2泊は郊外のお寺にお世話になった。

 

香港を出てから分かった事だが、香港には英字の新聞があり、中国政府が載せないような記事が出ていた事を覚えている(ダライ・ラマの記事がトップだった)。

香港から一歩出て中国圏内に入ると、英字新聞は見当たらなかった。

宿泊も外国人が泊まるホテルは政府公認の外国人宿泊許可を持っているホテルにしか泊まれないという制約があった。(安宿は該当しない場合が多い)

 

 あれから8年。

香港では前代未聞の参加者数、100万人規模のデモが続いている。

昨年の11月にそんな香港のデモに参加している、著名なAu Loong Yu氏と学生1名が沖縄にやってきた。

 

彼らと出会う機会を得た私は少し、今の香港情勢について伺うことができた。

 

その前に、まずは香港のデモの基礎とも言える彼らの要求は何なのかを復習しておきたい。

 

いわゆる、五大要求

 

1,今回の香港デモの発端となったのは「逃亡犯条例の改正案」の完全撤回犯罪者を中国当局まで引き渡せるようにする)です。

 

2,市民活動を「暴動」とする警察と政府の見解の撤回

 

3,デモ参加者の逮捕、起訴の中止

 

4,警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施

 

5,キャリーラム(林鄭月娥)行政長官の辞任と民主的選挙の実現

 

 

二人に会って、話を聞いて、改めて画期的だなと感じたのは、五大要求デモにはリーダーが存在しないということ。

Be Water, My Friend. という言葉はブルース・リーの有名な言葉らしく、香港のデモでもこの言葉を用い、流れに任せた、柔軟な動きを、様々な小さなグループが行っていることで、政府権力は弾圧する狙いが定められない。

 

以下はその学生が書いた文章なので、紹介したい。

 

 

★暴力のレベルアップと非暴力派のジレンマ───運動の現場から
陳怡(香港暴政の目撃者。本文は個人の見解であり、全ての非暴力派を代表するものではありません)
2019年8月14日
原文
https://opinion.udn.com/opinion/story/10124/3988001
2014年の雨傘運動からのことだが、香港社会運動の配置は非常に広い。イデオロギー的には本土派、泛民主派、左翼などがあり、実際の行動では勇武急進派と平和理性非暴力派(略して和理非)がある。泛民主派と左翼は一般的に「和理非」を主張し、本土派はだいたいにおいて勇武派を構成している。(原注1)
原注1:一般論であり、すべてがそうではない。それぞれのスタンスは幅があり過ぎてここでは言い尽くせない。
兄弟それぞれ頂上を目指せ
雨傘運動の失敗(という定義をする人たちもいる)の理由の一つに、運動内部の分裂と矛盾をあげる人は結構多い。なので反送中運動がはじまった当初、勇武派と和理非派が矛盾を見せた時に、かつての轍を踏まないように次のような認識を確認した。「席を割らず、仲たがいしない、後ろ指を指さない」、つまり「分裂しない、裏切らない」ということである。
雨傘運動の「メインステージ」(運動呼びかけのプラットフォームを指す:集会の壇上―――メインステージから指示を出すというイメージから)であった泛民主派は運動の衰退にともない、本土派から嘲笑と攻撃の対象となった。とくに運動を独占し、他の勢力の台頭を抑えつけると考えられたからだ。反送中運動が始まってからも、「メインステージ不要論」が言われ、「兄弟それぞれ頂上を目指せ」(それぞれがそれぞれのやり方で頂上を目指せ)が強調された。
この呼びかけは確かに素晴らしい効果を果たした。とくに民衆が運動の参加する際の自主性を励ました。反送中では多くの自発的な運動表現がおこなわれた。たとえば各地でつくられた「レノンウォール」(壁にメッセージを張りまくる)、ウェブ上や街頭にはさまざまなフライヤーがあふれ、宗教団体、中高年のグループ、母親、医療スタッフなどがそれぞれ大小さまざまな
集会やデモを行った。
こうした運動が「各地で花開いた」結果、香港の社会運動の意識は高まり、五年前にくらべて成熟した。
100万の平和的デモが衝突と暴力的弾圧に変わるとき
二か月にわたって続いている反送中運動の情勢は、人々の想像を超えるほど変化が速い。とくに警察とプロテスターとの緊張関係は激しさを増しており、世界中がドキドキするほどだ。とはいえ国際的に大きな注目を集めた最初のデモは、6月9日の100万人デモのである、平和的デモも効果のあることが証明されている。
しかし、林鄭月娥行政長官が挑発的に「予定通り法案を審議する」という公式発言は、100万の市民の意思を無視したとして人々の怒りに火をつけ、(6月12日に)最初の警察との衝突を引き起こした。香港政府が問題の対処においての能力のなさを露呈したと言える。
このとき、プロテスターに対する周りからの疑問は「なぜ突撃する必要があるのか」ということであった。「和理非」の一人である私は、警察と衝突しないという原則を守ってきたが、勇武派の行動にも複雑な感情を抱いていたことも事実だ。
認めなければならないが、もし6月12日に衝突がなく、平和的な集会だけにとどまっていたら、その日に法案は採決されていただろう。結局のところ、暴力的衝突が起きたのは平和的デモやっても無駄だということを香港政府自身が示したからであり、そのような政府の態度がデモ戦術のレベルアップを引き出したである。
では6月15日に林鄭月娥が法案の審議を中断すると言ったのに、どうして人々の怒りは収まらないのだろうか。一般的に言われているのは、中断と言っても後から審議が強行されるのでは意味がなく、法案の完全撤回(廃案)を人々が求めているからだ。私や他の友人らは「中断」は「撤回」とほとんど同じであり、現状から言えば審議の再開はほとんど無理だろうという認識だった。にもかかわらず「中断」で納得しなかったのは、要求が法案の去就だけに止まらなくなったからだ。
6月12日に私も現場にいたし、中継を見ていた多くの人々もそうだが、警察のあまりの暴力濫用を絶対に受け入れることができない。かりに法案の審議が中断されたとしても、警察の不当な暴力については絶対に追求しなければならないと思っている。
しかも6月12日の衝突は、香港政府が6月9日の100万デモの声を無視したことによって作り出されたのであり、それに責任を負うのは政府の方であり、私たちプロテスターの方ではない。今の状態で法案審議の中止だけを受け入れることは、6月12日に負傷した仲間たちを見捨てることと同じになる。
バラバラな「和理非」と勇武派の政策
「和理非」、勇武派各自為政
運動の焦点が6月12日から、警察の職権乱用に対する怒りに移ってきている。また6月15日には法案反対を訴える一人の青年がビルの上から墜落してなくなり、悲しみに包まれたことが、200万人のデモにつながったことは確かである。この力をいかに持続させ、今後の運動につなげていくのかが今後の運動の勝敗のカギを握っている。
6月21日の警察本部包囲行動には私は参加しなかった。理由は簡単だ。わたしはウェブ上で行動の様子を調べたが、この行動の獲得目標とどこまでやるのかという方針を明示されていなかったからだ。衝突するのか、するならどの程度までやり合うのか、撤退の方策は如何なっているのか、弾圧されたときの支援体制は等々、私の疑問に答えてくれる回答は見つからなかった。
「メインステージ」のない運動にはたくさんの人が参加できる。しかしたくさんの人が集まった集会で、責任団体もなく明確な指示もないことは、その集会がどうなるのかという予想がつかなくなってしまう。もし平和的デモの支持者がその集会に参加して、突然予告もなしに衝突が始まってしまったら、衝突を望まないデモ参加者がその場を無事に離れることができるかどうかは分からないからだ。
その後、勇武派と和理非の間には暗黙の了解ができて、民陣のデモが何度か行われたが、勇武派は集会やデモの終了が宣言されてから、さらなる行動を開始するようになったので、平和的デモの参加者が巻き添えを食うことはなくなった。
暴力のレベルアップで去った一部の市民
7月1日の勇武派による立法会突入では、その直前に民主派の議員らが先頭で思いとどまるように説得していたが功を奏しなかった。その後7月に入り、毎週のように香港各地でデモがおこなわれた。7月14日の沙田の新城市広場(ニュータウンプラザ)での包囲戦、7月21日の元朗ヤクザと警察の結託など、よくご存じだろう。8月5日には三罷(労働者のスト、授業ボイコット、商店休業)が実施され、香港の7地区での集会は、最終的に暴力的衝突に発展した。
衝突のヒートアップに伴い、「和理非」の間にも分岐が生じた。「深く黄色」(黄色は民主派の色で、根っからの民主化支持者、くらいの意味)の人々はプロテスターらに同情し、様々な方法で支援の手を差し伸べるようになる。たとえば車で現場まで送り迎えする、レストランのクーポン券や物資をカンパするなど。なかには前線まで赴いて負傷したプロテスターを運び出す手伝いをする人もいた。
それと同時に、「薄い黄色」の人々は衝突方針に賛同せず、運動からも離れていってしまう。世界中の注目が勇武派と警察の衝突に集まっていたが、運動から引いていったこれらの人々に関心をしめすことはほとんどなかった。
和理非の原罪
6月9日の最初の逮捕者が出たときから、和理非(民陣、民主派議員らを含む)は、ずっと勇武派の攻撃対象になっていた。まるで「分裂せず」のかけ声など気にすることなく批判の声は続いた。6月9日以降、多くの若者たちはこう食って掛かった。「ぼくらが殴られたり捕まったりしたとき、どこにいたんだ」と。しかしあの日(6/12)の中継を見れば明らかだが、民陣の呼びかけ人らはずっと現場で警察とプロテスターとの衝突を緩和しようと努力していたのだ。言ってしまえば、「どこにいたのか」という彼らの非難は、「なぜ一緒に衝突に加わらないのか」ということに他ならない。
今まで、泛民主派議員や民陣の活動家のすべてが、政府の暴力こそが問題の根源であることを公言している。にもかかわらず、勇武派から「和理非」への非難の声はあちこちで聞かれる。
7月14日の沙田事件後[デモ後、警察が催涙弾を使ってショッピングモールなどにデモ参加者を閉じ込めたりして40人以上の逮捕者が出た]の翌日、多くの市民が新城市広場(ニュータウンプラザ)のインフォメーションカウンターを市民らが包囲して、なぜ警察をショッピングモールの中に入れたのか納得のいく説明を管理者に迫ったとき、民主党の林卓廷立法議員[若手で党幹事長]もその場にいた。その場に危険な武器をもつ市民がいたので冷静になるように林議員が呼びかけたのだが、その場にいた勇武派の支持者らに「運動の分裂を許さない」などと詰め寄られた。
集会やデモが終わったときに、和理非派が平和的解散を呼びかけただけで、「分裂」と非難されてしまう。
議論も協力もなく
8月5日の夜、私はひとりであちこちを見て回った。プロテスターが段ボールを積み上げて燃やしていたので、どういう目的で火を燃やしているのかを失礼のないように礼儀正しく聞いた。ところがこのプロテスターは「とくに目的はない」と一瞥しただけで作業を続けた。さらに5分ほどたったあとで、もう一度目的を聞いたところ、プロテスターの一人が「分裂を許さない」と叫んだ。
私はすぐに、質問したのは非難するためではなく、どういう戦術目標があって火を燃やしているのかを知りたかっただけだと伝えたのだが、返事はなかった。その後、消防車がやってきた(プロテスターが119番したと思う)。火はもうほとんど消えかけていたのだけど。警察が前に出てこないように消防車を呼んだのではないかとさえ思った。
消防車が仕事を終えてその場を去ろうとしたとき、その後ろから十名ほどのプロテスターが消防車のあとについて前の方へ駆けて行った。わたしの隣にいた他のプロテスターは、あいつらたぶん自分たちの防衛線をもうすこし前に進めようとしたんじゃないかとつぶやいた。意図がつかめないプロテスターたちも消防車についていったがうまくいかず、結局、消防車だけが走り去って、あとからついていったプロテスターたちは仕方なく元の場所にもどってきた。
これはほんの一例にすぎない。これまでの観察のなかで、勇武派はそれぞれの小さなグループの集合体に過ぎず、何か問題を提起すると「仲間割れはやめろ」と言ってくる。議論も協力もなく、それぞれやりたい事をやっている。勇武派を良く知る人によると、勇武派は非常に分散しており、大きくてもせいぜい10~20人ほどのグループだという。もちろん「メインステージ」(指導者)などないが、唯一のコンセンサスは大規模な行動がある時に一斉に登場する。しかし具体的な戦術や目的はそれぞれバラバラだという。
中国政府と香港政府によると、このようなプロテスターは外国勢力が操り、グループごとに訓練を施しているという。なんとも壮大なジョークだ。もし本当に外国勢力が訓練を施しているにもかかわらず、こんな程度のレベルでしかないのなら、その外国勢力の能力もたかが知れているではないか。
「メインステージなし」と「分裂しない」が拘束衣にかわる
勇武派が誰からも操られていないがゆえに、泛民主派議員や民陣は彼らとの対話や協力がまったく要領を得ないことに頭を悩ませてきた。勇武派に交渉を申し入れたとたん「ヘゲモニーを握ろうとしている」と非難される。勇武派の急進化に対して受動的にならざるを得なくなる。
暴力的衝突は注目され、世界のメディアもそこに集中する。だが反送中運動の多数派である和理非派はそれによって周辺化され、重要な作戦的位置を失う。どのようなアクションをしたとしても関心や反響が限定される。平和的デモも最後の局面で勇武派の衝突にとって代わられる。平和的ストライキも最後には警察による勇武派への弾圧で幕を閉じる。
さらに残念なことは、和理非派は勇武派に実力行動を思いとどまらせることができないことだ。「ヘゲモニーを握ろうとするのか、分裂しようとしているのか」と非難されてしまうからだ。
わたしが勇武派の実力路線に反対なのは、人道的観点からではない。たんに勝算がないからだ。もし双方の武力が拮抗していたり、香港人の大部分が革命に殉じる用意があるのなら別だが、そんなこともない。ストライキや不服従運動(座り込みなど)でさえ、理想的な参加には程遠い。ストライキですら準備できてないのに、それ以上の代償をこうむる暴力的衝突など、方針としてどうなのか。
みすみす逮捕者をだすだけで自軍の勢力を弱めることになる。逮捕者は700人を超えた。情報通によると勇武派の半分ほどになるという。新たに勇武派に加わる人間がでないことにも頭を悩ましているという。今後の衝突の規模は小さくなると予想される。
平和デモでさえ逮捕される
8月11日には現場にいた女性プロテスター(医療スタッフとも言われている)が右眼を撃たれた。翌日8月12日には私は他の香港人たちと一緒に国際空港での抗議のシットインに参加した。その日のすべてのフライトがキャンセルになったが、機動隊も空港に展開するという情報が流れたとき、わたしはその場から立ち去ることを選択した。
というのも飛行機を止めるという目的はすでに達成されたからだ。加えて、このかんの警察のひどい暴力行為を観ているので、平和的にその場を離れることが賢明だと思ったし、「Be Water」の精神にも合致するだろう。そうしたところやはり非難を受けた。だが何のためにその場にとどまり続けるのか。私を非難した人間に聞いても説得力のある答えはなかった。
8月13日に空港を麻痺させたが、これは和理非の行動であっても同じように効果があることを証明した。しかしプロテスターの一部には警察のスパイだと疑われた男[中国本土のタカ派メディア『環球時報』の記者だった]を結束バンドで拘束して、身分証明証を曝し、スマホの中身を調べて、医療スタッフが彼を運び出すことを制止したりして、最後には警察が介入してプロテスターが逮捕されて、警察が拳銃を向ける局面になったことで、和理非派の運動はまたや乗っ取られてしまった。
この事件で堪忍袋の緒が切れた。とくにこのかん、プロテスターたちは警察が人権を無視して、身体や家宅の捜索をしたり、逮捕したりすることを非難していたのに、8月13日には同じことを身元不明の人物に行い、同じように人権侵害をおこなったのだ。
この事件までに、和理非派はすでに、板挟みにあっていた。勇武派に不満をもつ人たちが運動から離れないように説得しつつ、「分裂しない」という原則を守らなければならなかったからだ。勇武派による実力行動は、平和的デモを禁止する口実にも使われた。和理非派の平和的アクションのスペースは、勇武派の行動によって縮小させられていた。
8月13日、民陣は8月18日に平和的デモを行うことを公表した。和理非派は断乎として運動に戻ってくることを強く宣言した。記者会見では「ネット上では今回は衝突の事態を避けて、和理非派になるという声が大半だ」と述べて、発言権を取り戻す努力をしている。それが功を奏するかどうかは8月18日に勇武派が休戦するかどうかにかかっている。(※訳注三章)
8月13日を経た今、もし勇武派が依然として対話もせず協力をもしないということであれば、和理非派は真剣に「分裂」の条件を考える必要がある。この運動で一番犠牲を払っているのはカメラに映る人々ばかりではないだろう。犠牲を厭わない姿勢を、実際の運動に資する形で示すべきではないか。勇武派への理解を示すだけにとどまらず、勇武派の諸君が和理非派の突き当たっている困難に思いを馳せるよう言ってはもらえまいか。
※訳注:8月18日には170万人のデモが実現し、大きな衝突も発生しなかった。しかしこれ以降、12月8日の88万人デモまで、民陣のデモは許可されなくなる。

仏教ってなに? について

 「ありとあらゆる事象は移り変わっていく、常識、価値観、習わし、伝統でさえも」

 

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今回「 仏教」とは何かという事を今一度、考えてみたいと思います。

 

仏教というのは英語ではBuddism。このブディズムという英語の言葉は、仏陀の教えという意味で使われています。
ここでは「宗教」という言葉は使っていません。
仏教とは仏陀の教え」という意味の言葉です。

それでは、「宗教」という言葉はどこから、いつから、どのような意味で、使われるようになったのでしょうか? 

 

「宗教」という単語は、じつは比較的新しい言葉のようです。
明治期に輸入された「Religion」という単語の翻訳語として、宗教という言葉は日本に生まれたとされています。

「religion」は、「宗教、宗派/宗旨、信仰/信条」などの意味を持つ単語です。  
語源の一つは、ラテン語の「religō(しっかり結ぶ)」です。
「再び」を意味する「re-」と「縛る/結ぶ」を意味する「ligō」から成っています。
「再び結ぶ」 ⇒ 「神と人間を絆で結びつける」という意味から、現在の「religion」=宗教という意味の言葉が形成されました。

以上の様な意味から、仏教=宗教というのはあまり適当ではないように思います。

仏教は「宗教」と呼ぶよりも、「教え」と言った方が適当だと思います。

例えば、医学の専門家のお医者さんは、患者さんに指示を与えて、患者さんはそれを実践し、それで病気が直すことができますが、それと同じ様に、仏陀は、健康のことや数学のことでなく、心というものについて教えてくれているということになります。

 

仏陀には幾つもの別名があって、その内の一つが“医王”です。

 

ブッダは病気を診ることを専門としていた医者ではなく、心にさまざまな苦悩を抱えた人に対して、苦悩から脱却することのできる道筋を示す専門家でした。
だから捉え方によっては、ブッダは心の病の医者でもあったといえます。
“医王“と呼ばれるのも十分納得できるのです。

 

仏陀はどうやって心を制御するのか、どうやって心の悩みをなくすのか、どうやって冷静でおもいやりのある人格を作るのか、そういう方法を教えました。

 

ですから、仏陀の教えを学んで、私達の心にある未熟さを直して、磨いて、いわゆる完成した人格を作ること、これを本当は「成仏」と言います。
本来は、亡くなることを成仏とは言いません。

成仏には他にもいくつか言い方があり、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と言ったり、無上菩提と言ったりします。いずれも、「悟り」と同義語になります。

 

次に、ブッダとはなんでしょうか?


仏陀というのは、ある精神的な立場、状態です。
仏陀にも名前がありました。
お釈迦さまは、実存した歴史的な人物です。
ゴータマ・シッダルダ、姓がゴータマで、名がシッダールタです。
仏陀というのは「悟りを得た人」という意味の言葉です。
仏陀というのはBUDDHI(ブッディ)という名詞から来ています。
BUDDHIというのは、日本語で言うと、菩提です。
菩提とは、真理に対する目覚め、すなわち悟りを表し、その悟りを得る智慧という意味に近い言葉です。ですからブッダとは、智慧を完成した人という意味になります。

つまり、仏陀とは神とか、人間以外の何かではなく、あくまでも私達と同じ人間であります。

 

世の中にある医学、心理学、物理学などと同じように、方法を教えて、こういう風に実践してみればこうなりますよというような理論と実践の教えが仏陀の教えの一つの特徴です。

 

それでは、どうして現代社会が、とくに日本が宗教に対して、或いは宗教と聞いただけでも、怪しいと感じてしまったり、警戒感を懐いてしまうのでしょうか?

 

三つの点があげられると思います。

 

1、 僧侶の堕落。 多くの方が知らないことですが、仏教僧侶で結婚し、家庭生活をおくっているのは日本だけです。海外の僧侶は戒律を持ち生活していて、出家と在家の生活スタイルの違いがあり、世間からも敬意を持たれています。

 

2、 僧侶の不在。 昔からカルト的な宗教は存在していましたが、まじめな宗教の存在も世間に見える形で存在していました。現在は寺院の家庭化なども伴い、まじめな宗教者の姿が世間から消えてしまっているように思えます。
良い例が、僧侶が僧侶の格好をして外を歩かなくなってしまっている事や、在家の格好をして歩いている事、入りにくい雰囲気のお寺が多かったり、オープンなお寺があっても入場料をとったり、入っても僧侶は居らず、教えもないというような事があげられます。

 

3、 本来の教えの不在。 拝むこと、お願いすることが宗教であるという認識が広がってしまい、本来の教えである、道徳的な面や、論理的な面が、社会への奉仕や貢献などが多くの僧侶から発せられなくなってしまっている。

 

現代人が、現代の大半の宗教活動を見ていて宗教に親近感をもっていないのはあたりまえだし、仕方がないとおもうけど、それにしても仏教というのは智慧の教えであり、智慧の実践法であるので、日本で一般的に考えられているような「宗教」ではないと、申し上げておきたいと思います。仏教とは本来、普段の暮らしにとても役に立つ教えなのです。

 

是非、近くのお寺(日本のお寺はコンビニの数よりも多い)に行って、僧侶達に日頃の悩みや問題を聞きに行って下さい。

それこそが僧侶の役割なのですから。

 

もっと僧侶を使っていきましょう。仏教を役立てていきましょう。

 

次回は“苦”について考察を深めていきたいとおもいます。

 

石垣島 陸上自衛隊配備計画の賛否を問う住民投票の実施を求める裁判 12月24日

人生初の裁判の傍聴をしました。

石垣島の友人、金城君や花谷さん夫妻が来ていた。六月の石垣島平和行進以来の再会にお互いに笑顔になった。

 

さて、裁判の話。

簡単に説明すると、多くの住民が反対する石垣島自衛隊新基地建設(於茂登岳という自然豊かで宮良川源流の地に)計画の賛否を問う住民投票を求め、14267筆(有権者の37%)の署名を市長に提出{石垣市自治基本条例に=有権者四分の一以上の署名をもって住民投票の実施を市長に対して請求できる...(略)市長は所定の手続きを経て住民投票を実施しなければならない。}したが、議会は否決した。

 

島の未来を大きく左右し、住民が反対している軍事基地(しかもミサイル配備の計画)の受け入れの有無を問う住民投票がわずか1ヶ月で有権者の37%が請求した事実は重い。

 

石垣島の未来を大きく左右する問題に最前線で関わろうとする金城龍太郎さんは29歳。

アメリカのアーカンソー州の大学を卒業し、故郷の石垣島に帰ってきて、マンゴー農園を営む、とても、柔らかい物腰の青年。

花谷さんはズッキーニとゴーヤー等を、無農薬で育てている。市議会議員と仏教に興味のあるお若いご夫婦。

その他にも石垣島では結構多くの若い世代(40代以下?50代以下?若さの定義はそれぞれ)がこの問題に関わっている。

 

基地問題や政治的な社会問題で発言したり、目立ったりすると、周りから一歩引かれてしまう日本社会。

ヨガをしたり、瞑想したり、自然派で生きるような人達は往々にして、基地問題や政治的な事に距離をとりたがる。そして、地球規模の危機を不可避にしているシステムそのものを変えようとしない。何故ならそこには「悪いエネルギー」が満ちていて、そんなことをしてもうまくいくはずがないから、と。実際ライフスタイルを変える事は、社会の問題解決の一部にはなるため、一見、問題に目を向けているように思えるかもしれない。だが、片目は固くつぶったままなのだ。

 

社会の目は冷たく、政治になんの希望も見いだせないような現状だが、金城君や花谷さん達のような、心優しい、自然と共に生きようとする人々が、自ら望まない「悪いエネルギー」の場でがんばっているのを、見て見ぬ振りをしないで、ぜひ、関わって行ってもらいたいと思います。

 

次回は2020年2月13日11時15分に那覇地裁になります。

ご参加を!!

 

 

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石垣島産 花谷農園のズッキーニ

 

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那覇地方裁判所前の公園


 

辺野古キャンプシュワブ前座り込み報告~2019年の終わりに~

辺野古キャンプ・シュワブ前の座り込みは2014年7月に始まった。
5年と5ヶ月が経過した2019年12月現在も土日を除き連日座り込みが続いている。
今後も1年2年3年、いや、5年10年20年と続いていくのだろうか。

 

朝9時、大型トラックの一団がパトカーに率いられてやって来る。(何故?パトカーが米軍基地建設の工事車両を先導してやって来るのか?安全のため??)
12時、二度目の工事車両の搬入。午後3時、三度目の搬入となる。
防衛局局員2~3名、軍警2~3名、民間(テイケイ)警備員約20名(交代制なので全員で何名かは不明)、警官20名(多い時は数倍増える)、国道事務局員1名、たちがいわゆる、警備上の理由から、配属されている。
一方、埋め立て用の土砂は名護市安和と本部町塩川から、船によって運搬されてくる。
此方にも勿論、海上の民間警備会社と海上保安庁の警備が付く。

 

命とは何か?と問われた時、一つの定義としてその生命が持つ“時間”と言えると思う。
その命とも言える“時間”を基地の前に座り込む事に費やす人生とはなんていうことでしょうか?目の前に広がる素晴らしい珊瑚礁の海で遊ぶのではなく、それを守る為に暑いコンクリートの路上で同じ人間同士が命を削っている。
悲しい沖縄の現実だ...だがこの現実は沖縄だけのものではない。

給料で雇われている警察も防衛局も海上保安庁も抗議行動の見張りの漁師もトラックの運転手も、警備会社も、お金を得ることで家族の暮らしを支えている。
基地建設や埋め立てといった行為が間違っていると感じようが、矛盾を感じようが、将(はた)又(また)やりたくなかろうが、やらなければ、家族は路頭に迷ってしまうのが今の社会である。
そう、彼らには選択肢が無いようだ。
沖縄の基地問題に於いても、世界規模の気候変動危機の問題に於いても、お金によって人間の活動が支配されてしまっているシステムを変えることなく、問題は解決できるのだろうか?

 

“誤ったシステムの中に正しい生き方は存在するのだろうか?”

 

私達人間は生命を維持する為に必要不可欠な、海や、土や、空気を、壊しながら、その行為でお金を貰い、生活をしてしまっている。
一方で、海を守る為に日々、身体を張る人達は生活の為に必要なお金をもらえず、お金がなくなれば、海を守る仕事を一時放棄して、お金を得る為に仕事を探しに行く。世界は何故こんな構造になってしまったのだろう。

 

地球温暖化の警鐘が鳴らされたのは30年も前、しかし温室効果ガスを排出することで、より良い生活を約束されたシステムの中で生きることを選んだ私達は、近所に在った森がいつの間にか無くなっていても、近くを流れる川が汚染され生態系が破壊されているのを知っていても、或いは、周りで環境汚染によって人や動物が苦しんでいても、私達は見てみない振りをしてきたのではないだろうか?

数百年前まで、4年に1種だった種の消滅のペースが、現在ではわずか1年間で約4万種にまで激増しているといわれている。
この地球上ではもう、人間に「有益」な家畜以外、種を存続させることが難しい状況になっている。
しかし、野生動物が住めない世界にはきっと、私達人間も住めないだろう。

 

誰かがやってくれるだろう、私は忙しい、地球は私達が少し汚したくらいでは何ともない、などと何の根拠もない言い訳を並べて、豊かな暮らしを続けてきてしまった。
これは、私の過ちであり、私達の過ちである。

先進国と呼ばれ物質的に豊かな暮らしを享受してきた日本の様な国が、とくに地球を破壊しているのであり、その結果としての異常気象で苦しんでいるのは、経済的に貧しく、自らを守る術が少ない国の人達であることは忘れてはいけない。

 

平和運動だと思い行動している私たちの足下は大丈夫だろうか?

世の中の問題認識は刻一刻と変化していっている。
もはや、飛行機に乗ることすらCO²を出すからといってやめる人達がいるし、食肉の生産が環境破壊の大きな原因になっている事から、肉食離れが進んでいる。意志決定の場に女性が居ないことは今や不自然であるとされている。

反戦平和のシュプレヒコールの後ろに置き去りにされてきた足下の問題に向き合う時が今来ている。
先日、辺野古の月例集会に組合いの若者達が大勢来ていた。恒例の議員団の話が続く中、「つまらない、早く帰りたい」と呟いていたそうだ。
そんな彼らが自分の意志で集会に再訪することはなさそうだ。

反省のないところに前進はないし、個の声を拾い上げることをしていかなければ、皆の心は離れていってしまう。

“生きづらさ”という言葉が生まれる今の時代に、仏陀がそうであった様に、個を大事にし、一人の人と丁寧に向き合うことを忘れずにゆきたいと思う。

 

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キャンプ・シュワブゲート前で祈念する僧侶



「絶望」することを奪い返したいー2019年3.11の福島と宮城ー

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福島県飯舘村の細川牧場のお家に壁に貼ってあった言葉

福島県三春町の武藤類子さんの言葉を読んでもらいたい。

 

いま、現実・絶望・悲しみ・苦しみを見せないようにしたうえで、夢・希望・未来・絆といった言葉の世界が築かれていると思います。

放射能物質は今もそこにあるのに。

傷ついているのに「傷つかなくていいと」と言われ、心配しているのに「心配ない」と言われ、私達の「再生」も、私達ではない人達がプログラムしている。大きなお世話というか、本当にやめて欲しいですね。

私達は「再生」という言葉を奪い返したい。いや、それだけではなく「絶望」ということも奪い返したいのです。いま、私達は「絶望」することも奪われてしまっている。もっと、きちんと「絶望」したいし、それを経ることなしに、おそらく私達の「再生」は展望できないと思います。

いま私達を取り巻く絶望も、苦しみも悲しみも、そして再生も、私達自身で選び取りたいのです。

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飯舘村細川牧場の細川さん

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福島県南相馬市小高区の双葉食堂

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福島県に入ると目に付く放射線量のモニター

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福島県南相馬市の国道6号沿いに設置されていた碑文

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南相馬市原町カトリック教会のシスター

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宮城県山本町立中浜小学校の津波被害跡

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2011年3月震災当時の新聞

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震災当時の新聞

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震災当時の新聞、原子力緊急事態を宣言

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津波の跡地には何もない

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3月10日例年の慰霊行脚で福島県浪江町の請戸海岸へと歩く

福島第一原発の事故による放射能拡散は無差別に平等にありとあらゆる人達の生活を壊した。
原発で働く人、役場で働く人、畑で働く人、学校に通う人、家を守る人…等々。
自然農だろうが、パーマカルチャーだろうが、伝統的な生き方だろうが、将又会社員だろうが、放射能は、誰もそして何処も、区別せずに降り注ぎ、生活を奪っていった。

どんな人も、再び、原発の事故を望む人はいない。

政治運動(政治に関わる事)はとても大事な生活の一部だ。

自給自足、人間の生きる・生かされているという事を学ぶ基本だとおもう。

マハトマ・ガンジーは、イギリスからのインド独立運動で指導者をしているときに、
とある記者からこの様に質問を受けた。
記者―「ガンジーさん、貴方の運動は政治運動の様でもあり、社会運動の様でもあり、文化運動の様でもあり、農地運動、医療、衛生、教育、経済、運動の様でもありますけど、一体全体、なんと形容したものでしょうか?」
ガンジー-「私のこの運動は純粋な宗教運動なのです。真理を求め、非暴力の生き方を常に模索しているのです。」
(半分フィクション)

宗教運動=真理を求める生活。
ガンジーは“真理”と“非暴力”は一枚のコインの片面ずつであると例えた。
非暴力を究めることこそ、真理を見つける事なのだと説明した。

 

初めての台湾 ー台中・霧社ー

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色とりどりの果物たち。日本では見たことないモノたちも。

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台中駅(奥に見えるドーム型のが現在の駅で手前は日本占領時代のもの)

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台中駅前

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台中市

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移民や海外労働者達の集まるビル

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ベトナム、タイ、ラオス、フィリピン等東南アジアの食堂が並ぶ。

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台中の新市街。まるでアメリカ。

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台中で有名なナイトマーケット。屋台の数や規模がとても広い。

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菜食食堂はバイキング形式で重さで値が決まる。

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バスで霧社へ。

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台湾随一の公害都市。原因の一つは石炭火力。

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バス停のスタンド。

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霧社から望む風景

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霧社に在る日本占領時代に建てられたと思われる鳥居(現在は道教の寺)

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小学校

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小学校の壁絵

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小学校の壁絵

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霧社事件の慰霊碑

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慰霊碑の公園に在る銅像

霧社事件】って知っていますか?

1930年、日本占領下の台湾で起きた日本軍+親日派セデック族や周辺の諸蕃部族(「味方蕃」と呼ばれた)対 霧社セデック族マヘボ社と6つの社(村)の衝突で殺し合いが起きた。

日頃から、日本の占領政策に快く思っていなかった先住民による武装蜂起であったが、先住民同士も同じ部族内、又は違う部族同士で仲が良くなく、日本軍はその関係を利用し、先住民同士を敵対させ、殺し合わせたという事件。

この事件で戦死した日本兵、並びに味方蕃は靖国神社に祀られているらしい。

 

その後、第二の霧社事件というのも起き、日本側から武器を与えられていた、部族が、既に敗北していた部族を再度襲撃し、大量に殺した事件も起きた。

 

最終的に生き残った霧社セデック族は川中島(現在の清流)へと強制移住させられた。

そして、日本軍側に付いた味方蕃達が霧社に移住した。

この歴史的な事件は今でも部族間の協調を阻んでいるようである。

 

この村を訪れ、この様な歴史を知った時、日本人としての責任のようなものを感ぜざるを得ない。

 





 

初めての台湾ー台東編ー

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台東でお世話になった友人の家

台東に住む友人の家に泊めてもらった。

彼女は台北近くの生まれだが、台東に移住した。

彼女の言うには、都会の人達が台東近辺の田舎に移住してきている、という事。

台東は先住民が住む地域。卑南族(beinan)  彼らの言葉でPuyumaという人々の集落に住んでいる。自給自足の生活を目指し、手作りの生活を送っている。

 

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車から見える景色

台東から北へ車で一時間。アミ族の地域に入る。

この日は、アミ族の入り江をリゾート開発から守るプロテストを見に行った。

写真の奥に見える赤い屋根の建物はホテルだが、地域の反対?かなにかにあい、営業していない。このホテルを経営している企業がアミ族の入り江のリゾート開発を狙っていると言うこと。

台湾の東海岸は切り立っている。

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台東の町並み

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荷台に乗ってもOK

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アミ族の暮らしてきた海辺をリゾート開発から守るためのプロテスト。

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アミ族の暮らしてきた海辺をリゾート開発から守るためのプロテスト。

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アミ族の暮らしてきた海辺をリゾート開発から守るためのプロテスト。

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アミ族の暮らしてきた海辺をリゾート開発から守るためのプロテスト。

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アミ族?の女性がインタビューを受ける。

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腹ごしらえの屋台 魚のフライ 美味しかった

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台東県成功村の市場

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台東県成功村の市場

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アミ族の村と田圃

アミ族のおじいちゃんに出会った。

日本語が少し話せる。

現在は83歳位だっただろうか、子どもの時は日本語だったが、まだ小さな時に日本が台湾から出て行ってしまって、日本語もちゃんと学べなかった、と嘆いていた。

多分…日本が敗戦して出て行った後は台湾は混乱していたし、学校に行けなかったのかもしれない。行けたとしても、中国から逃げてきた、国民党政府のもと日本語が学べるはずもなかった事と思う。

この家はおじいちゃんが昔、商売していたときの建物。

今は、若い移住者が田圃や畑をやりながら、生活している。味噌や醤油も自分で造っている。

それを見て、アミ族のおじいちゃんは、「そんなことしないで何か商売すればもっと儲かるのに、なんでそんなに大変なことするんだ?」といぶかしげ。

 

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田圃

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作業リスト

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種屋さん

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種屋さん

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日本の東北やオーストラリアの非核の平和行進を歩いた旗

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台東から台中へ向かう列車の車内から。

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椰子の木畑

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マンゴー園

台北から向かった台東は、楽園のようだった。

多くの若者達が移住してくるのも頷ける。