基隆 平和の海、島々連帯ピースキャンプ 2025

過去の歴史を振り返る時、台湾、済州、沖縄で開催されるピースキャンプに参加する者達の中で、私が有する日本人というアイデンティティーは、未来の為の平和を創造するうえで歴史を学ぶ時、彼ら三つの地域の者達と一線を画していると感じる。
今回も基隆の街の歴史案内を受けた時も、台湾、済州、沖縄の人達の基隆での歴史とは非抑圧者としての物語であるのに対して、日本人の私の歴史は植民地主義者としての歴史である。
過去は変えられないし、先祖達の犯した罪の責任が私に無いにしても、現在の日本社会の歴史修正主義(否定論的)的風潮を放置せず、植民地主義国家としての過去を学び、東アジアの未来の平和構築に積極的に取り組む事で、自らの責任を果たしていきたいと考える。

なんとなく昭和の日本の路地裏を思わせるような佇まい。ここは過去の日本人居留地区。

日本の植民地時代に建てられた西洋風の建物。

基隆市内の歴史散策。

ここも日本人地区であった辺り。

基隆タワーがある高台から眺めた街並みと港。

鶏篭中元文化館。死者達を弔う中元節のお祭りの祭壇。「鶏籠中元祭」
*Wikipediaから、「基隆」という地名の由来は、元々この地一帯に住んでいた台湾原住民平埔族ケタガラン族 の族名がなまってケランとなり、それに台湾語音によって漢字が宛てられ、鶏籠(雞籠, ケーラン)と呼ばれていたことに由来する。今日でも台湾語ではこう呼ばれる。




























ヨーロッパ旅行記 続き 2025年 7/2〜21 イタリア〜ドイツ



標識には行き先が書いてある。『I』はイタリア、『SLO』はスロベニア、『D}はドイツ。ここはオーストリア。

オーストリアからイタリアへの道中。







ポーランドのアンナさん。彼女の車でコミソまで。2泊3日の旅。

イタリアに入り、暫く南下して行くと次第に日光が強くなってきたような気がする。

Bologna(ボローニャ)の街。
ボローニャは若者の街らしい。
なぜかというと大学があるからだ。
そしてボローニャ大学はとても古いらしい。
1088年に創立されたとされる西欧諸国で最古の大学ということ。
そしてなんと学生だけで77000人もいるという。











街の中心部では野外映画がやっていました。










少し斜めの塔。




ボローニャに住むブリッツさんとサラさん(左の男女)
















サラさんとブリッツさん、そしてもう一人の3名でシェアハウスをしている。


イタリアのコーヒーのスタンダードはエスプレッソ。そして立ち飲みもよくある。ここは高速のパーキングエリア。

パーキングエリアのピザ。
物価はイギリス、オーストラリア、ドイツよりも安く感じた。


南イタリアになると、景色に変化が。
乾燥し、平地が広がっている。
大規模な農地も目にするようになる。







フェリーでシシリー島へ。
対岸が見える。30分で到着。
橋を掛けないのはマフィアが原因とのこと。
フェリーの利権?それとも、離島の優位性?







エトナ山 シシリー島



シシリー島コミソ仏舎利塔
とても乾燥していて、インドのビハール州を思い出した。




モディカという古い街。








モディカはチョコレートが名産。







エスプレッソは濃いので少量で出てくる。
私がインドに居た時にお寺に2度来たアントニオさんとその妻と娘。

壁が厚い。そして感想しているので外が暑くても建物の中は涼しい。

葡萄を足で踏んで果汁が床の下に流れる仕組み。
ワインを作る家。
もしかしたら家具は最近いれた?




対岸はアフリカ

シシリー島コミソの元軍事基地。冷戦当時ヨーロッパのイギリス、ドイツ、イタリアの3ヶ所に大きな核兵器配備基地があり、その内のひとつ。
約200発の核ミサイルが配備されていた。
地元の反対運動と冷戦の終結を受け閉鎖。


トゥーリーさん。コミソの基地反対運動で日本山妙法寺の森下上人と共に働いた。


反対運動当時、参加者達が住んでいたピースキャンプに玄題宝塔が建っている。


サルボさん。今は若者がひとり住んでいる。



コミソの街中に有る平和のモニュメント。よく見るとミサイルの上に鳥が羽ばたく。


トゥーリーさんと地元の方々と街中や街頭修行。









コミソ仏舎利塔の周辺の景色は乾燥していて空の色や土や植物の色がよく映える。

仏舎利塔の建つ丘からしばらく行くと、電気ももちろん水道も通っていない谷間にてんてんと人が住んでいる。イタリアの街中でもよくアナーキーのマーク(A)を見た。イタリアはアナーキズムが盛んだった歴史を持つ国らしいが、谷間で生活している彼らを見て、私が思っていたアナーキズムよりももっと広い意味でアナーキズムという思想がこの地には根付いているように思った。

今も洞窟に住む人。





シシリー島での戦争の歴史博物館。第二次世界大戦。連合軍は南からファシスト達を駆逐していった。


























カターニャの食堂で。

カターニャの街は整然としたイメージのいわゆるヨーロッパの街とは違ってもっとカオスな雰囲気がした。中東やアフリカ、アジアの雰囲気が漂っている様だった。




フリックスバスという格安長距離バスでカターニャからローマへ移動。約10時間くらいかかった。

朝5時過ぎにローマに着いて、とりあえずエスプレッソで。


ローマの街。


ローマ中心街に昨年出来たという少林寺。泊めてもらおうと訪ねたが、ローマの建築法などで寝室以外は宿泊不可とのことで、断られてしまった。それでも果物などを頂きました。


ローマ市内には至る所に水が出ている水道があった。蛇口はなく常に水が出ている。最初は怖くて飲まなかったが、飲めると分かってからは重宝した。
なんとローマ時代に敷設されてらしい。恐るべしローマ帝国。

マリア様を祀る教会の本山的なサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂。
ちょうど日曜日でミサに参列。色んな国や地域からシスター達が来ていた。




サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂。外観

ローマ・テルミニ駅。ローマの中心駅。

テベレ川。ローマ市内を流れている。


ローマ最古の教会(12世紀)の一つ。サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ。




不思議な壁画。


サンタ・マリア・イン・トラステヴェレ。外観。


パレスチナ関連の壁画アート。トラストヴェレで。





ローマ市内にあったユダヤ人ゲットー。今でもユダヤ人のコミュニティーがありそう。パン屋さんなどがある。

この場所で1000人近くのユダヤ人がナチスに強制的に連行された。生きて戻ってきたのは10人だったか、20人にも満たなかったという。
レンガの建物はホロコースト資料館。

これはシナゴーク。ユダヤ人の歴史(ローマでのことも)ミュージアムもあった。
入場するのにセキュリティーチェックがあった。
90年代にパレスチナのテロリストにより爆弾テロがシナゴークの前であり、数名が死んでいる。
真実の口?





シナゴーク内の記念碑。たしか、地位の低かったゲットーにようやく偉い人(王様か教皇だったか?)がやって来て、ユダヤ人コミュニティーの存在が認められた、というような説明だったような…

1944年6月4日、ローマの街がナチスから解放されてから初めてユダヤ人(アメリカ兵)による祈りが捧げられたことを記念する石碑(シナゴーク内)

シナゴーク天井
シナゴーク祭壇。

此処からユダヤ人の歴史説明。


























ローマの街はまるで遺跡の中にあるよう。





コロッセオ。ローマ時代、命を賭けたやり取りが娯楽として扱われ、民衆の熱狂を帝国の支持に使った。






ここからアッシジ。










イタリアでの反戦運動の強固な一角をキリスト教の思想がになっていると聞いた。
そんな平和思想の聖地的な場所の一つがこのアッシジだという。
12〜13世紀アッシジのフランチェスコ(日蓮聖人と同時代だ!)
有名なのが、平和運動の現場でも唱えられる「平和の祈り」だ。
以下。
この祈りの言葉は日本でもよく見聞きしていた。
正確にはフランチェスコの作ではないらしいが、人の心に訴えるものがある。
そんな言葉や思想が現在もイタリア、そして日本でも受け継がれていて、一定数の社会活動家達の思想の基になっていると聞き、俄然訪問したくなった。






















アッシジは観光地でもありました。







かわいいイタズラ?



再びフリックスバス。ローマからジェノバ経由でドイツケルンへ。



ジェノバの食堂は安かった。

ケルン到着。




ミュラー夫妻。れいこさんとクラウスさん。彼らの平和運動グループが公園の名前をつけた。
八月は毎年ここで平和の集会を持つという。


ノンアルです。

ケルンのシナゴーク。ハマスに囚われている人質の解放を訴える横断幕。


ある駅の脇にユダヤ人がナチスに連れ去られた歴史が刻まれた石碑があった。このような説明ばんはドイツ各地にあるらしい。
石碑の一番下に落書きがされているのが分かるだろうか?「ナチスに連れ去られ殺されたのが良い死に方だった」という様な落書きがされていた。
私のドイツの印象は、ドイツという国はナチス時代のホロコーストなどの過ちを社会としてしっかりと反省し、学校教育もその反省の基に教えられているというものであった。
その事はそんなに間違ってない様だが、一方で1944年のナチスの壊滅以降もドイツ社会では反ユダヤの思想や言論は根強く存在しているということだ。
ドイツでは公にナチスやヒトラーやホロコーストを肯定したり、その様な歴史を否定したりすると法律で罰せられるという事は知っていたので、その様な状況の中でも反ユダヤやホロコースト否定論やヒトラーの礼賛などが根強く残っているということに私はかなり驚いた。



ライン川はスイスのアルプスを源流にドイツを南北に走り、オランダを通り海に出るらしい。

ヴィルヘルム2世。
人種差別的であり、反ユダヤ主義者であり、ナチスを支持したという。

大量の施錠🔒が橋の側面に付けられている。カップルで付けると何か縁起が良いということらしいが、とんでもない量の鍵が付いていて、その重量で橋への負担が心配されている。

近くでゴシックのイベントがあり、ゴシックの服装をした人たちが大勢いた。


1940年、1000人のロマ人がナチスによって強制収容所へと連れ出された。という石碑。




ケルン大聖堂前の広場と駅。

ケルン大聖堂は約600年掛けて建設されたという。




古いステンドグラス。それぞれ時代が違うらしい。これはおそらく一番古い物で、今日は再現不可能なステンドグラスとのこと。







幾らか払うと大聖堂の上に登れた。













ミュラー夫妻らが行っている原爆展。
こちらは現代のプロテスタントの教会でとても質素な内装。






白いのはソーセージでした。

ユダヤ人が住んでいて、ホロコーストで殺された事が判明している家の前の路上に嵌め込まれている。生まれた年と殺された年、そして場所なども記載されている。
ドイツを歩いていれば、至る所にこのマークを見ることができる。

ボン(元西ドイツの首都)の歴史博物館。
「戦後のナチズム」という内容がメインでした。とても勉強になった。
60年代や70年代の街頭インタビューなどの映像も流れていて、街角を歩く人たちのユダヤ人に対する排他的な言葉が生々しかった。






ホロコースト記念碑に「反対」を表明する人が42%もいるという、1998年の西ドイツ。

「ナチスの犯罪の糾弾を続けるべきか?」という問い。
1979年だが、高齢者も若者層も「終わるべき」との回答の方が多数派。



「過去のナチスの問題は今日もあなたにとって重要か?」イエスの回答が圧倒的多数。これは2021年の16歳から25歳の人達のアンケート。

反ユダヤ主義の犯罪が何処で行われているかの表。
一位 インターネット
二位 路上

展示の出口に三つのゲートがあり、この展示を見て、今どう考えるかで通るゲートを選ぶ。
その下を通ると一人として加算される。
あなたならどのゲートを通りますか?

隣ではドイツのラブパレードの写真展があった。

















ナチスと連合軍の戦いがあった場所。建物の中は資料館。










ライン川の辺りに立つ街。



ベートーベンが演奏した建物です。という記念碑。
ヨーロッパ旅行記 2025年 6/20〜7/2 イギリス〜オーストリア
ロンドンの仏舎利塔が建立されて40年を迎えるということで、これを久しぶり(2016年以来)のヨーロッパ再訪の契機と捉え、イギリス、オーストリア、イタリアの各日本山妙法寺のお仏舎利塔の法要へ巡拝し、最後にドイツのケルンから沖縄へと飛びました。
約一ヶ月の旅行となりましたが、各地で見聞きした事は多岐に渡り、いちいち書き出してしまうと、まとまりも無くなり、キリもなさそうなので、道中に撮った写真を此処に保存し、旅の記録と報告としたいと思います。
合掌

ロンドンに到着。ヒースロー空港到着が夜の七時過ぎになり、この写真を撮ったのがもう九時過ぎていてのですが、六月下旬のロンドンはまだ明るかったです。テムズ川、写真の中央に仏舎利塔がの見えます。

ウエストミンスターホール、現イギリス議会の議事堂の一部。


ビッグベン時計台。


女性参政権運動家、ミリセント・フォーセット。この辺りでは唯一の女性の像とのこと。

隣にはガンディーの像があった。


第二次世界大戦の女性たち。

仏舎利塔へ向けた諸宗教者合同の平和行進がありました。
ここはクエーカー教徒の建物で此処から出発しました。

ウエストミンスター大聖堂


イギリスの法要では多くの諸宗教者たち参列してくれました。

マイクの前に座っている男性はイスラム教徒を代表し挨拶している。



様々な方がミルトンキーンズ仏舎利塔をサポートしてくれています。そのうちの一人ジェイク。


ロンドンの鉄道駅




現金払いができないロンドンの交通機関。クレジットカードで払える。


ロンドン道場正面



ロンドン市内を歩いていると多くの警官たちに遭遇しました。
この先はトラファルガー広場といって、様々なデモや集会、イベントなどが頻繁に行われている場所らしいです。ヨーロッパの都市の特徴として、この様な広場が街中に幾つか有ります。
広場とは人々が集まり、話したり、交流する場所として、大きな社会的価値があるようです。

この老人はホロコーストの生き残りとして、ガザのジェノサイドを止めろとプラカードを持っていました。







ロンドンの地下鉄。地下鉄としては世界で最も古くなんと1863年開業。

帝国戦争博物館の館内。
各エリアでテーマが分かれていて、第一次世界大戦、第二次世界大戦、ホロコースト、企画展(この時は戦時性暴力)などの内容でした。
感想としては、大英帝国がどのように戦争を行ったかというものだったと思います。戦闘機や戦車、銃器の展示が大きなインパクトを与えていました。印象としてはどのような戦闘が行われたという戦闘行為についての展示が目を惹き、何が誤りだったのかなどの自己批判的な内容を見つけることができなかったことが残念でした。
大英帝国にとっての戦争とは第一次と第二次世界大戦ということになるのでしょうか。確かに大きな戦争で、犠牲者の数も他の戦争に比べ比較にならないほど多かったかもしれませんが、
私としては、イギリスの植民地主義の歴史を少しでも見たかったです。
アフリカ、中東、アジア、南米、北米、オセアニアなど世界各地に植民地化した事は戦争とは異なるかもしれませんが、今の世界に多くの禍根を残し、多くの争いや貧困の原因となっていて、それが紛争や戦争に繋がっている事は、イギリスをはじめヨーロッパ諸国が行った植民地政策に端を発するものです。
ホロコーストの展示が大きなエリアを占めていました。イギリス(ヨーロッパ)にとって、ナチスファシズムが生んだホロコーストは人類史上、最も大きな過ちであったと認識しているのかもしれません。その通り最も大きな過ちの一つであったと思います。しかし全体の展示内容からは「他人の悪を見、己の悪を見ない」ような印象を受けました。
「帝国戦争博物館」という名称の通りの展示内容と言えるのかもしれませんが、勝者や強者の語りやすい歴史に留まっている印象でした。
後に、永瀬上人さんにイギリスの植民地主義の歴史を扱った博物館はないのか聞いてみたらマンチェスターにあるとのことだったので、いつか行ってみたです。
People's History Museum.←たぶんこれ。


帝国戦争博物館正面

インド大使館、ロンドン

ロンドン、カトリックワーカー。カトリックワーカーはカトリックではなくキリスト教の一派でアメリカのニューヨークでドロシー・デイ等によって創られた組織で反戦運動や貧困問題に対して直接行動をとる組織として知られています。

路上生活者たちに夜の寝る場所と夕食と朝食を提供しています。彼らは全員アフリカ系でした。日中は路上で生活しているということです。

カトリックワーカーのメンバーと。


Oops! What has he done? Are you flash him down ???

フィッシュ&チップス




バスでスタンステッド空港へ移動。


空港内のお店。柚月麻子の『バター』がイギリスでは絶賛らしい。最近は村田沙耶香の『コンビニ人間』をはじめ、日本文学が海外で人気とのこと。
『バター』はフェミニズム文学なのですが、日本とイギリスではその評価が違うとのこと。
日本では男性からの支持が少なく、女性が男性を支配する?という様なストーリーに反感を買うらしい。

スタンステッド空港

オーストリアのウィーン空港に到着。英語からドイツ語へ。

ドナウ川で白鳥さん。
ドナウ川はヨーロッパで二番目に長い川らしい。ドイツを水源とし西から東へと中殴、東欧を横断する。ドイツ南部に始まり、オーストリア、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ルーマニア、ブルガリア、モルドバ、ウクライナを通り、黒海へと注ぐ。
ヨーロッパの名の由来はギリシア神話に登場するフェニキアの王女エウロペ(ラテン語)にあるという説が最も有力らしい。ギリシア神話のゼウスは花を摘んでいるエウロペを見て一目惚れし、白い雄牛に変身し、エウロペをクレタ島へ連れ去った。そして子供を作りその子がクレタ王となってヨーロッパ最初の文明「クレタ文明」を築いたと伝えられいる。
ヨーロッパという地域の中に西欧や東欧そして北欧という言葉は聞いたことがあったが、中欧と南欧という言葉は今回初めて知った。


日本山妙法寺 ウゥーン道場

ウィーン仏舎利塔

ウィーンの勤行には地元の人たちが多く参加する。









法要






ウィーンに住むスリランカの方達が施食を用意。参拝者全員が食べられる。

ウィーンの地下鉄。

ウィーンの中心にあるシュテファン大聖堂。
外観も教会内にもその荘厳さに圧倒される。






私たちが僧侶だったからか?有料の区域に案内してくれた。






シュテファン大聖堂外観

ウィーン市街地




ペスト(黒死病)記念柱。
中世ヨーロッパで猛威を振るった伝染病は当時のヨーロッパの人口の三分の一、或いは四分の一の人の命を奪ったと言われている。
その際、原因不明の大量死がユダヤ人が毒をまいたせいだとされ、すでに迫害されていたユダヤ人の迫害に拍車を欠けたとされている。
第二次世界大戦下、ナチスドイツによるホロコーストで600万と言われているユダヤ人の命が奪われたわけだが(ナチスによる虐殺はユダヤ人以外にもシンティ・ロマ人、障害者、性的少数者などにも及んでいる)このウィーンにもかつてユダヤ人地区があったという。







ハプスブルグ家女王 Maria Theresa 銅像(マリー・アントワネットの母)

ウィーン美術史美術館
19 世紀に開館した荘厳な美術館。豪華な内装が施された館内に、アート コレクションや古美術品が展示されている。




























ここからエジプト展

















ここから絵画展
















有名なバベルの塔


































美術史美術館外観
広大な広さ。世界最古と言われている動物園や庭園もある。








トラム(路面電車)


こんなところにもパレスチナの国旗が。




慣れない街で、違う所に来てしまった。
ウィーン空港のカフェメニュー

遅延が多かったり、有人チェックインが有料だったり、色々と厄介。



ウィーンの市街地を歩き、中世のゴシック様式やバロック様式の建築群に圧倒されました。
東アジア平和行進2025 参加記 陳 志剛
東アジア平和行進2025 参加記
陳 志剛
約1年ぶりに、今年の「東アジア平和行進」に参加するため、日本の沖縄県西端に位置する石垣島を再び訪れました。10日余りのあいだ、私たちは石垣島や与那国島のさまざまな場所を歩き、島の人々の声に耳を傾け、また身体で島の自然環境を感じ取りました。私にとって、これは非常に特別で貴重な体験であり、その思いを記録としてまとめ、読者の皆さまと共有したいと思います。
▌「東アジア平和行進」とは。
平和行進は1960年代の日本に始まり、当時の僧侶たちが東京から広島まで徒歩で歩き、戦争の犠牲者を慰め、世界の平和を祈願したのが起源とされています。今回私が参加した「東アジア平和行進」は、約10年前から始まった取り組みで、沖縄を中心に、台湾や済州島などでも実施されています。この行進では、参加者は交通手段に頼らず、自らの足で島々の土地を歩き、太鼓を叩き、経を唱えたり、祈りを捧げたりしながら、土地とその人々への祈りを込めて歩きます。今年の行進が宮古島・石垣島・与那国島で行われたのは、後述する「全島民避難」という政策の提起と関係しています。
私は日程の都合で宮古島での行程には参加できず、石垣島での行進が始まって3日目に合流しました。行進の日々は、概ね次のようなスケジュールです。朝5時半に起床し、数名の僧侶による読経と、平和や生命についての短い話があります。その後、皆で協力して朝食を準備します。8時頃から行進が始まり、歩く距離は数キロから十数キロとさまざまです。行進を終えて宿に戻り、夕食をとった後は21時に就寝。寝袋やエアマットを持ち寄り、水泥や木の床、あるいは畳の上で眠ります。5月末から6月初めの石垣島と与那国島の夜には、湿り気を帯びた涼しい風が吹き、意外にもよく眠れました。
石垣島と与那国島では、私たちは御嶽(沖縄の伝統的な信仰の場)や、聖地である於茂登岳、海辺、戦争遺跡、慰霊碑などを巡りながら歩き、島とその住民のために祈りを捧げました。また、地元の住民、市議会議員、織物作家、料理人など多くの方々と出会い、島についてのさまざまな思いを伺いました。彼らは自身の成長過程、島の現状、進む軍事化への懸念、そして戦争の影の記憶について語ってくれました。以下に、私が行進の途中で特に印象に残ったいくつかの出来事を記録として紹介いたします。
▌石垣島の土地公廟
石垣島では、於茂登岳のふもとに位置する嵩田(たけだ)地区を訪れました。この地域には、戦前に台湾から移住してきた人々の子孫が多く暮らしています。かつて台湾からの移民たちは、水牛を石垣島に導入し、またパイナップル栽培を広めたとされています。
私たちは、彼らの足跡をたどりながら「台湾農業者入植顕頌碑」や、台湾人が創立した「大同拓殖パイン工場」の跡地、そして地元の台湾系住民によって建てられた土地公廟を訪ねました。正式名称は「福徳宮」といい、廟内には日本語のカレンダーと台湾華語の掲示があり、正面には沖縄伝統のシーサーが鎮座していて、文化の共存が目に見える形で表れています。
土地公廟のそばでは、第2世代・第3世代の台湾系住民の方々とお会いしました。時期は初夏、端午の節句の頃で、彼らはカットしたスイカやグァバ、そして手作りの台湾式ちまきを用意して私たちを温かく迎えてくれました。彼らは、台湾系として石垣島で育ち、暮らすことへの思いを語ってくれました。私たちもまた、それぞれの台湾情勢への思いを分かち合いました。日本本土ではあまり見かけないグァバを頬張りながら、私は心からの幸福を感じ、すぐそばにある台湾をふと思い出しました。
廟の傍らには「台湾同胞」と大きく書かれた看板が立てかけられており、おそらく毎年の旧正月の集いで使われるものと思われます。沖縄にいながら、目の前にはまさに台湾らしさ溢れる廟があり、台湾語や台湾華語が飛び交う空間が広がっていました。石垣島の台湾系住民の方々とお会いするのは今回が初めてでしたが、不思議なほどの親しみを感じました。
▌八重山の「戦争マラリア」
石垣島の台湾系住民との交流に加えて、私たちは八重山平和祈念館も訪れ、第二次世界大戦中に八重山諸島で起きた「戦争マラリア」について学びました。館員の説明や関連資料によれば、1945年の春から夏にかけて、アメリカ軍が日本本土への反攻を開始し沖縄本島に上陸した際、八重山に駐屯していた日本軍は、民間人が捕虜となって軍の機密が漏れることを恐れ、住民に山奥への移動を命じました。
しかし、「避難」(当時の用語では「疎開」)先として指定された石垣島の山間部や西表島全域は、同時にマラリアの流行地でもありました。史料によれば、日本軍はその地がマラリアの多発地域であることを知りながら、住民に対して強制的に移動を命じたことがわかっています。
かつてマラリアに感染した人々は、当時の体験をこう語ります。真夏にもかかわらず寒気に襲われ、その後は身体が熱を持ち、寒さと熱さが交互に繰り返され、最悪の場合は命を落とすこともあったといいます。戦争末期、八重山の住民は空襲を経験し、さらに食料や薬も不足する中で、マラリアの蔓延する山間部へと移動を強いられました。「避難」と称して山中で数ヶ月を過ごす中、多くの人々がマラリアに感染し命を落としました。
西表島の南にある波照間島では、軍の命令によって島民が西表島へ強制移住させられ、約1500人のうち500人以上が命を落としたと記録されています。
1996年、遺族と政府との交渉の末、遺族代表は政府の提案を受け入れ、慰霊碑の建立、八重山平和祈念館の設置、記念誌の発行、そして「戦争マラリア」犠牲者の追悼式の開催などを通じて、この問題は「政治的に解決された」とされました。
しかし、八重山の人々にとって、戦争マラリア「問題」は本当に「解決」されたのでしょうか。あるいは、戦争マラリアは本当に「終わった」と言えるのでしょうか。
この点について、千葉県出身のドキュメンタリー映画監督・大矢英代さんは、波照間島に滞在し、島の高齢者たちと生活を共にしました。戦時中、マラリアで家族を失った経験について語る場面で、孝子さんというおばあさんは、まるで子どものように大粒の涙を流しながら泣いていました。大矢監督は、孝子さんが13歳で家族を失ってから、その時の痛みが一度も癒えることなく、今もなお続いているのだと感じたそうです。
慰霊碑や平和祈念館が設置されたとはいえ、生き残った人々にとって、戦争の傷跡はいまだに癒えておらず、「戦争は終わった」と簡単には言い切れません。
それは、台湾においても同じことだと思わされます。第二次大戦中の空襲や、二二八事件、白色テロを経験し、目の前で人が血を流し、死に、あるいは消されていく様子を見た人々の中には、80年近くが過ぎた今も、当時の夢を見てうなされる人、語ると涙が止まらない人がいます。
戦争、虐殺、独裁体制による人間への加害は、70年、80年経ってもなお消え去ることはありません。私たち平和行進の参加者は、そのような過去を直接体験したわけではありませんし、戦争で両親を失うことやマラリアに実際に感染することがどういうことなのか、想像することすらできません。それでも、今もなお苦しんでいる人々の姿を目の当たりにすることで、戦争がもたらす痛みの深さと重さを、強く感じざるを得ませんでした。
▌全島民避難計画
一方で、私たちが石垣島や与那国島の住民と話をする中で、彼らが口をそろえて懸念を示していたのが、最近政府が打ち出した「全島民避難」計画についてです。いわゆる全島民避難計画とは、戦争が発生した場合などに備え、宮古島および八重山諸島に住む約12万人の住民を、日本本土(九州や山口県を含む)へと避難させるというものです。ここで政府が想定している「戦争」とは、もちろん台湾海峡をめぐる緊張や衝突を指しています。沖縄県の玉城デニー知事もこの避難計画に対して支持を表明しています。
しかし、石垣島や与那国島の複数の住民は、この「全島民避難」について強い不安を口にしています。彼らが最も恐れているのは、一度日本本土へ避難してしまえば、長期間にわたって故郷に戻れなくなる可能性があるということです。見知らぬ土地で、親戚も知り合いもいない旅館や施設で生活することになるかもしれないという状況に、不安を覚えるのは当然のことです。
さらに、仮に戦争が終結し、帰郷が叶ったとしても、その時にはすでに島の自然環境が破壊されているのではないか、インフラは使える状態なのか、人と人とのつながりは保たれているのか、そして地域の伝統行事や祭祀は途絶えていないのかといった懸念も語られました。
島民の言葉から強く感じられたのは、代々住み続けてきた故郷を離れなければならないことが、いかに重く、受け入れがたいことであるかという思いです。かつて宮古島市議会議員を務めた染織家の石嶺香織さんも語っていました。避難計画や訓練を進めることよりも、全国の力を結集して戦争そのものを起こさないようにすることこそが、本当に必要なことではないか、と。
さらに一部の住民からは、今回の避難計画が、第二次世界大戦末期の「疎開」とあまりにもよく似ているという声も聞かれました。1944年、アメリカ軍の攻撃に備え、日本政府は沖縄の何万人もの住民を台湾や日本本土に避難させました。しかし、一部の避難船(たとえば「対馬丸」)は航行中にアメリカ軍の攻撃を受け、千人を超える子どもや市民が命を落としました。また、避難先で戦後を迎えた多くの子どもたちは、沖縄に戻ったときにはすでに家族を失っており、孤児となってしまったケースも少なくありません。そのため、沖縄の多くの人々にとって「疎開」や「避難」は、軍事作戦のために民間人が犠牲になる行為と捉えられているのです。
島民たちとの対話を通して、私たちは、戦争の影が少しずつ迫るなかで、彼らがどれほどの不安と無力感を抱えているかを、ひしひしと感じ取ることができました。
▌島の苦境と自然
将来への不安だけでなく、島民たちは現在島が直面しているさまざまな困難についても私たちに語ってくれました。たとえば、与那国島の人々は、島で唯一の診療所と薬局がまもなくなくなることを心配していました。今年5月、長年にわたって医師を与那国島へ派遣してきた「公益社団法人地域医療振興協会」は、台湾海峡情勢などへの懸念を理由に、来年度から派遣を中止すると発表しました。同時に、島内に一つしかない薬局も閉店する予定であり、今後は沖縄本島の薬剤師が薬を調剤し、空輸で島に送ることになるそうです。しかし、この薬が届くまでには少なくとも2日かかるといいます。
台湾本島や日本本土に住む私たちには、診療所も薬局もない生活を想像するのは難しいことです。与那国島には約1650人が暮らしていますが、まさに医師も薬局もない日常が現実となろうとしています。国境を越えた台湾を除けば、最も近いのは石垣島で、船で4時間、飛行機で30分ほどですが、それでも片道数千円の費用がかかります。離島における医療資源の脆弱さがよくわかる事例です。
さらに、与那国島では人口流出も深刻な問題です。島民によると、最大の理由は島内に高校がないことだそうです。中学校を卒業した生徒たちは進学のため、石垣島、沖縄本島、九州などへと渡り、家族も一緒に移住することが多いのです。いったん移住すると、そのまま定住して戻らない人も多く、人口減少に歯止めがかかりません。いかにして島に人を呼び込むかが、与那国島の大きな課題となっています。
一方で、4〜5日間にわたって与那国島を徒歩で歩くなかで、私たちはこの島の自然を体全体で感じることができました。島の至るところには巨大な岩壁がそびえ立ち、海辺では海と風の浸食によって生まれた地形が見られます。島の東端にある「東崎」には、断崖の上に広がる草原があり、数十頭の牛や馬が人間を気にすることなく草を食んでいます。
雄大な景色を見ずとも、島の道端には特産の「長命草(ちょうめいそう)」が多く生えており、食物繊維と栄養に富んだこの草は、私たちが滞在中によく口にした食材でした。
長時間、島の自然のなかを歩くうちに、私は「自分が本当に自然の中に存在している」という実感を強く抱くようになりました。特に印象に残っているのは、宿泊していた祖納集落から東崎へ向かう道を歩いていた時のことです。左手には海へと続く切り立った崖、右手にはゆるやかに起伏する草原が広がり、その草原の先にはもう一つの大海原が見えました。遮るものが一切ないせいか、道中は常に強風が吹きつけ、服や髪が風で舞い上がっていました。
強い海風の中、崖に近づいて波が岩に打ち寄せる様子を見下ろし、耳をつんざく風の音と波音を聴いていると、自分が生きた存在であり、大自然の中に確かに存在しているのだという感覚に包まれました。
▌歩きながら「平和」を考える
石垣島と与那国島での十数日間、十数名の仲間たちとともに、自分たちの足で島の大地を歩き、身体で島の自然を感じました。島の人々と向き合って語り合い、お互いの物語に耳を傾け、悩みを共有し、心から笑い合い、別れ際には固く手を握り、再会を約束しました。これは、島の過去を学び、現在を見つめ、島民の声を聴くための歩きでした。この旅の中で、私は目の前の人や自然と、謙虚に、そして誠実に関わることができていたらと願っています。
山や海辺の道を歩きながら、あるいは島民との対話の途中で、私は強く感じました。島の自然やそこで暮らす人々は、地図上の記号でも、統計の数字でも、軍事シミュレーションの図でもありません。彼らは現実に存在する自然であり、ひとりひとりが固有の物語をもつ生きた人間です。自ら足を運ばなければ、その土地の自然や人々の物語、そして抱える苦悩を理解し、感じ取ることはできません。
同時に、私は石垣島や与那国島の人々が、自らの家、土地、故郷に対して深い愛情を抱いていることを実感しました。彼らが慣れ親しんだ故郷を離れたくない、戦争を望まないという思いは、台湾、沖縄本島、日本本土、あるいはアメリカや中国の人々とも共通しているのではないでしょうか。そうであるなら、武力によって「問題を解決」しようとするのではなく、お互いの故郷を歩いて訪れ、真摯に耳を傾け、思いを分かち合い、心を通わせることを通じて、共に生き、共存共栄できる道を見つけることはできないでしょうか。
▌「現実的な選択肢」としての平和
パワーポリティクスの観点からすれば、このような考え方は空想的だと退けられるかもしれません。なにしろ「もし中国が本当に攻めてきたらどうするのか?」という不安は、すでに台湾人の日常となっています。私自身も、いつか本当に戦争が起きてしまうのではないかと心配することがよくあります。こうした情勢の中で、備えを強化し、民間防衛を整えることは、確かに多くの人々が当然で避けられない選択と考えているようです。
しかし、問題は軍備そのものではなく、「国家の独立と自由を守る希望を、軍事力のみに託してしまう」時に、主権や民主主義の価値を支える他の可能な道を、同時に見落としてしまってはいないかという点にあります。
これについて、沖縄近現代史と東アジア国際関係を専門とする林泉忠教授が最近、具体的な提言を行っています。
林教授は国際情勢を分析したうえで、台湾社会に対する具体的なアドバイスを提示しています。彼は、台湾が現在の状況に直面するにあたり、長期的な平和の本当の土台は、アメリカのような単一の外部勢力に依存することではなく、国民全体が戦争によって残された歴史的な傷跡を学び、記憶し、平和の価値を深く理解することにあると指摘しています。たとえば、沖縄の多くの学校では沖縄戦を教材として取り入れており、台湾でも島の戦争の過去を改めて掘り起こし、社会全体が平和の脆さとその尊さを理解するべきだと訴えています。
さらに林教授は、台湾や沖縄は国際的なレベルでもより積極的に行動し、同じく戦争の惨禍を経験してきた東アジアの市民社会や地方自治体と連携して、「平和都市連盟」や「戦争記憶と平和を守るネットワーク」など、国境を越えた平和のつながりを推進すべきだと呼びかけています。
つまり、戦争と平和に関する新たな共同記憶を創出し、国家レベル以外の草の根的な平和の訴えが、軍事や備戦を強調する風潮に対し、影響を及ぼすことができるということです。
これは十分に実現可能な方向性であり、「平和もまた、現実的な選択肢の一つである」ことを示しています。軍備や民防を整えることと、戦争の悲惨さや平和の尊さを深く学び、他者を理解しようとすることは、決して矛盾するものではありません。
今回の石垣島・与那国島への行脚と交流も、まさにこのような平和の実践の一環でした。
実際に私は石垣島で、現地の議員や住民に対して、台湾人が抱える戦争への不安や、自己決定権を求める思いを率直に共有しました。そして、私の真摯な思いに対し、石垣島の人々は丁寧に耳を傾けてくれました。そのとき私は、人と人とが対話を重ねることで、お互いの恐れや夢を理解し合える可能性を強く感じました。だからこそ、私にとって「東アジア平和行進」のような現地交流の活動は、もっと多くの人に知ってもらい、参加してほしいと願うのです。
「私たちは分断されているのではない。ただ、まだ出会っていないだけだ。」——これは今年の平和行脚のポスターに記された言葉です。越えられないと思われた多くの溝も、実はただ「まだ耳を傾けておらず、まだ出会っていない」だけなのかもしれません。かつて平和行脚に参加した者として、来年の平和行脚に関心のある読者の皆さんに、心からの参加を呼びかけたいと思います。
2025年 福島県浜通り 双葉郡といわきを歩いて ー『命の行進』参加報告ー
ー『命の行進』参加報告ー

南無妙法蓮華経
十四年の月日が経った。27歳だった私は41歳になった。
2013年から毎年3月頃に福島県を歩いている。津波被害の多かった沿岸部や放射線量が高くゴーストタウン化した商店街や住宅地も、取り壊しや、新たな建物が建ったりして、もう以前の景色を思い出すことができなくなっている。この地が故郷だった人にとっての喪失感を私には想像することはできない。
一方で18才まで暮らした私の故郷小金井の街並みもどんどん変わっていて「あれっ?ここ前なにがあってっけ?」と思うことも多い。
人の記憶とは儚いものであると気づかされる。
ここ数年、「なぜ私は毎年福島を歩くのだろう?」答えの出ない問いが頭の中で幾度となく繰り返される。あえて理由を書き出すとするなら、ありきたりだが”責任”という言葉しか浮かんでこない。
震災後いつからか、福島に来ると”風評被害をなくそう”とか、”福島はもう安全”という言葉をよく目にするようになった。公然と”放射能や被曝への恐れ”を言葉にできない空気がある。以前、私は福島のこのような風潮を批判的に見ていた。しかし毎年通ううちに考えを改めるようになった。
福島で”安心安全”が強調されるのにはそれなりの理由があると思うようになった。
今回韓国から友人が参加した。彼女は福島が本当に安全か悩んでいた。もう一人の韓国の友人も数日だけ参加したが、同様に安全か悩んでいた。もちろん放射能のことでだ。福島県を訪れる海外の観光客数が原発事故後は回復が低調だという。日本国内では時間の経過と共に、また政官民による安全キャンペーン(”食べて応援”)などの効果もあり福島の放射線量を気にする人はかなり減ってきている。しかし、海外においては日本との情報格差から原発事後の情報はアップデートされておらず、さらには2023年のアルプス処理水(放射性トリチウム汚染水)の海洋排出によって”福島と放射能”のイメージが再燃してしまった。
日本では“福島はもう大丈夫だ”と思う人が増えても、海外からの目は“福島は危ない”と思う人もまだまだ多いことを今回韓国の友人たちから教わった。福島で安心安全が強調されてきた一つの理由は外の人間の福島に対する目であったと思い至った。「福島はもう安全なのに今も色眼鏡で見られている。福島の本当の復興のためには風評被害をなくさないといけない。」という心理が生じている理由の一つがここにあると思っている。
ある人が考える“福島は危険”も、ある人が考える“福島は安全”も、みんなの納得する答えにはなり得ない。“放射能汚染で危険な福島”というのは100%間違っているとは言えない。福島第一原子力発電所の周囲や放射線プルームが濃く降り注ぎ、除染されていない山間部は線量が高いので長居したくない場所だし、自然に生えている山菜や一部の川魚などを私は測定なしで食べることはしたくない。また観光で短期間訪れるのと、長年住むのとでは放射能に対する被曝の頻度や可能性、積算被曝量が違ってくる。汚染された山や川などに入らない。薪ストーブを使う場合放射能は灰になって濃縮されるので取り扱い注意が必要だ。
それなのに双葉郡への移住者の中には放射能汚染に対する事前知識が無く、汚染された家屋の廃材を再利用したり、廃材でBBQをしたりしてしまう人もいたらしい。低線量でも被爆した食べ物や飲み物を長期間摂取し続ければ、何らかの病気の発症率を高めることもあるはずだ。
だから日本では“もう福島は安全”という風潮が年々強くなってきているが、決して100%安全であると言うことはできない。そもそもどれだけ被爆したらどんな病気が発症するかは、特に低線量被曝の場合は現代医学でもはっきりとは分からないのだから。
多くの福島県民は福島に”住む、住まない”という選択を迫られたと思います。その中には多種多様でまさに十人十色の悩みと矛盾と決断があったのです。住みたいけど避難した人、避難したいけど住み続けた人、それと気にしない人も居たでしょう。「福島の人は~だ」とひとくくりでイメージを持つことは誤りです。
放射能汚染の影響で宮城県や岩手県に比べて復興の遅れた福島県は2021年の東京オリンピックを契機に帰還困難区域の解除や家屋の解体が進んでいる。福島第一がある双葉町と大熊町では、県外からの移住が積極的に進められている。一定の条件をクリアすると双葉郡に移住することで、補助金なども出るようになっている。両町とも町内に放射線量を下げた復興エリアを造り、そこに店や住宅や保育施設などがすでに出来ている。元々の住民はほとんど戻ってきていないなか、新規住民が移住してきているという。彼らは役場の職員や福島第一関連の仕事で来ている人が多いという。
原発立地町の一つの大熊町では3月15日に学園祭と称して復興音楽イベントが開催されたとのことだが、家族を震災で亡くされた地元の方はあまり良く思っていないようだった。3.11前後の犠牲者の追悼に重きを置いている地元の人たちの意向が汲み取られないまま進む復興イベントはそれが善意であっても、元々住んでいた被災した住民たち全員が喜べるものにはなっていないようだった。
地元の方に話を聞いてみると、新しく移住してきた人たちが大熊の復興という目標に向けてがんばってくれているのは有り難いことだが、元々の住民たちとの意思疎通が取れていないようで、元々の住民は置いてけぼりになってしまっているという話を聞いた。
また、町行政は新しい移住者たちに対して、放射線の問題を伝えていないということらしい。
昨年、57億円掛けて造ったと言われている0歳~15歳が通う「学び舎ゆめの森」という学校は駐車場に国の空間線量モニタリングポストで0.2μSv(マイクロシーベルト)以上を示していた。福島県の元々の線量が0.05μSv以下。学校の近くには林があり、心配した保護者が測ってみたら数μSvもあったとのことです。それを他の保護者に話したら「知りたくなかった」と言われたそうです。
東日本大震災の復興予算は今まで40兆円も使われています。現地で出会った人の話では「復興や再生ではなく開発だ」と。福島第一の周辺では国や県主導のF- REIという最先端科学技術の実験場のようなものが造られています。
人の住める地を失うほどの原発事故を起こした人間は、その間違った現代社会のあり方や生き方を探求、研究するのではなく、あくまでも科学技術を駆使して、人間の欲望を諦めずに生きて行こうとする様を見せられているようでした。研究されている方たちは人類に貢献しようと一生懸命に働いている方も大勢いるでしょうが、人間と人間以外の生命・世界を分けて考えている限り、原子力災害や同等の失敗を繰り返してしまうと思うのです。
原発事故当時は科学者や専門家さえも”東日本は終わりかもしれない”と思ったのです。
14年経った今、政府も人々も原発を再稼働させることを推進し、容認しています。
人々が批判しづらい「故郷を取り戻したい」という純粋な気持ちや「福島の為に」という気持ちも利用して、政府や企業が、もう住めないだろうと誰もが考えていた地を復興させていくという「奇跡の復興劇」は、人々の本当にこんなに放射能汚染された地に住んで大丈夫なのだろうかという心配をよそにどんどんと進んでいっています。
関久雄さんが作ったドキュメンタリー映画「かくれキニシタン」の中に、「普段は放射能なんか気にしてませんっていう顔して過ごしています。(でも)休みになると黙って近所の人には言わないで保養に行くんです。だから私は”隠れキニシタン”です。」という証言があります。
また映画の中に出てくる精神科医の蟻塚亮二さんは「日本の社会は国の言うことに意義をとなえる人、多数派でない人を叩きますね。また泣くことを、感情表現することを極力抑制する。取り乱してはいけない。とか、それが日本の美だとか。」と分析しています。
放射能へ慣れさせるためとも思える福島第一原発の見学が一般人にも開放されている。参加した人の話を聞くと、放射能測定機を持たされるようだが、高い数値が出ている所で長時間の説明があってハラハラしたという。結局積算被曝量は200μSvを超えたという。この数値が高いのか低いのか、議論が分かれるのかもしれないが、私は高いと思う。首都圏の人間が自分たちの豊かな生活の犠牲を目にすることは大切だが、加害企業の東電のストーリーの中で向き合うことはミスリードにつながると思う。
また、東電による詐欺のような話も聞いた。アルプス処理水(トリチウム汚染水)の水に線量計を近づけて「ほら、こんなに低いんですよ!」と放射線量の低さをアピールしたところ、放射線に詳しい人が、この線量計は放射性セシウムなどが出すガンマ線を測る物で、トリチウムが出すのはベータ線です。」といったやり取りがあったそうだ。

放射線量が事故以前の数値よりもだいぶ高くてもその地で生きていくことを決めている人たちが居る。最初は不安で恐怖だったことは誰でも想像できる。不安と恐怖に打ち克つにはたくさんの勉強が必要だったであろう。放射線は目に目えないし、感じることもできないし、機械の数値でしかそこに有るのか無いのかが分からない。時間と経験、知識と感覚で自らの理解を深めていったのだろうと思う。
福島に住む人たちが十四年の月日を経て達した決断に、東京で育った私は只々申し訳なく、悲しくなる。と同時に彼らの過ごした時間と経験と選択を敬服している。その凛としたいのちの在り方に羨ましささえ感じてしまう。
此処では、自給自足で丁寧に生きようとすればするほど、土を、水を、野菜や米を、灰を、糠を、薪にする木を放射線測定しな線量が高いから、自分では住まない方が良いと思っている地で生きていくと決めたことに、心の内は矛盾した想いがあるのかもしれない。
私たち東京を中心とした大量生産大量消費の社会が招いた現実を引き受けて生きていくと決めて住んでいる人が此処にはいる。彼らを崇めたり、ヒーロー化したいわけではない、ただその構図と対比が私の心を乱し続けているのである。
原子力=核エネルギーは火力や水力とは異なり、膨大なエネルギーを発し続け、人の手によって抑えることに失敗すれば暴走し、あらゆる生命を破壊する力を持っている。
そんな力に頼った現代文明社会の象徴といえる首都圏で育った私は原罪を背負っているのだ。
2011年3月15日以降、四基の原発の事故によって、日本に住む多くの人たちは便利さや快適さを追求した今の社会が、いつか自分たちの住む世界を破壊し住めなくしてしまうのではないかという事に気づいた。
放射能という人類の発展と便利さが生み出した毒を喰っても生きる、と覚悟した人達は海と大地と共に生き、そしてその心はますます澄んでいくだろう。方や金を喰らい毒を四方に撒き散らす私たち自由民主主義先進国民は心も体も蝕まれていくしか無いのではないか。
いわきの温泉で原発作業員の方にあった。「一日一万六千だ」と聞いてもいないのに話してくれた。海洋放出のパイプの繋ぎ目の確認をしているという。私が福島に来て歩いている理由を話すと、「福島も原発の利権で甘い汁を吸っていたからぁ」と言われた。来年も私は福島を歩くだろうと思った。
合掌
私達の言葉の主語は国家や権威を纏った組織であるべきではない。−台湾や中国への丁寧な理解を−
「台湾問題は中国の国内問題だ。両者は対話で解決を。台湾は中国を煽るな。日本は一つの中国を認めている。」
中国による台湾への武力行使を未然に防ぐ為としてこの様な言説があります。
戦争抑止の為には正当な論理の様に聞こえますが、これらの発言は多くの台湾人を失望させています。
台湾は約400年もの間、西洋、清、日本、中華民国と島外から来た勢力の圧政と支配を受け続けてきました。
多大な犠牲を払い90年代に漸く勝ち取った民主的社会から現在の中華人民共和国の一党独裁体制の社会に移行する事を望む台湾人は殆どいません。
私の出会う台湾人達は「中国は対話が可能な相手ではない」とよく言います。
事実、選挙で選ばれた台湾政府は対話を望んでいますが中国は拒否し、更には軍事威嚇や経済・外交で圧力をかけ続けています。
”台湾は中国の一部ではない”というのは台湾のおおかたの民意です。沖縄も日本の抑圧的政治に苦しめられ自己決定権を希求する立場ですから台湾の気持ちは理解できる筈です。
2019年、中国が香港の民主的社会を暴力で屈服させていく様を台湾は固唾を呑みながら観て”次は私達だ”と戦慄しました。
沖縄は米軍が世界各地で戦争を起こしてきた事を身をもって体験し、基地が在る事による被害や軍隊の島として戦争に加担させられてきたという歴史から、台湾が米軍に頼る事は決して良い選択ではないと自己の経験から分かるのです。
それでも台湾の立場に立ち想像すると、多大の犠牲のもとに得た自由と民主的社会、二度と他者に支配されたくないという痛切な想いを持ちながら、孤立無援ともいえる台湾の現状で米国に頼らざるを得ない事を批判する権利が私達にあるのでしょうか?
本来なら米中覇権争いの被害者である沖縄と台湾は、米中のくびきから逃れる為に手を取り合う仲間の筈です。
沖縄に住む私達が中国による台湾への武力行使を恐れ「台湾は中国の領土である」とする中国の主張を積極的に認める事は、台湾の歴史と主体性を切り捨てる事になってしまいます。
日中国交正常化の裏面は台湾との断交だった事とそこには冷戦下の大国間の思惑があった事も忘れていけません。
東アジアでの紛争を防ぐ為には中国との対話は重要ですが、権力者に虐げられている者達の足を踏みつけながらになってはいけません。
2014年は香港の雨傘運動、台湾のひまわり運動、沖縄のオール沖縄と同時発生的に民衆運動の熱が高まった年でした。政府間の論理からは取りこぼされる人々の声たち、私達はもっともっと互いの声を聞いていく作業が必要です。

不思議台湾

・面積は九州ほど。
・北部は中国語話者が多い。台北を中心に人口が多い。
・南部は台湾語話者が多い。人口は少ない。
・南北と中央に山脈が走り(最高峰は玉山(ユーシャン)約 4000M.西側は漢人が多く、大きな街が多い。
・東側は原住民の住む地域が多く自然が豊か。
・台湾には日本統治時代の日本軍人や軍艦を祀る廟が存在する。

・2024 総裁選 2 日後、ナウルが台湾との国交断絶を発表し中国との国交回復を表明。国交を結んでいる国は残り12 カ国。
・台湾と日本はお互いに好きな国1位同士と相思相愛。将来の夢は「日本人になりたい!」と言うシャイな五~六歳の男の子に会った。
・2020 年、20 代の投票率は 76%!? 日本は 34%。
・世界第2位のベジタリアン国家。
・原住民達の意志はどうなっているの?
・両岸関係の力関係に於いては圧倒的に中国が強い。経済と軍事、外交。
・台湾の武器は質の高い民主制社会。民主主義の模範となる台湾を専制国家の中国に蹂躙させてはいけないと世界に思わせ中国を牽制する。それと半導体。
【台東での一ヶ月】
2023 年の暮れ 12 月 14 日から 1 月 17 日迄、台湾の台東県台東市卑南郷利嘉村に約一月滞在した。今回の台湾滞在の目的は自信の中国語学習の為であった為それ以外の事には余り注意を払わなかったが、1 月 13 日は 4 年に一度の台湾総統選挙と立法委員(日本の国会議員)の選挙があり、台湾人にとっては様々なドラマが有った一ヶ月であった。
しかし如何せん私の中国語能力では日々の会話やニュースなどは殆ど理解できなかったのと、利嘉村という台湾原住民のプユマ族の小さな村であったので選挙の熱からは一定程度距離があった。
“有人在家”という民宿に一月お世話になった。
大体いつも宿泊者がいた。彼らはオーナーの官官(ぐゎんぐゎん)と山猪(シャンジュ)の友人達で多くは台北や台中や高雄などの大きな街からやって来て台東の自然を満喫したり、宿でのんびりと過ごす事を目的としていた。
興味深いなと思ったのが、台湾にもお茶の文化があり、ウーロン茶を中心に多くの種類のお
茶がある。
時間をゆったりと使い、香りや静寂を楽しみたいと、若い層にも一定の人気があるようだった。
台湾滞在中に何度かお茶の時間をみんなで楽しんだが、一度、仏教を勉強、修行しているという 20~30 代の方達に出会った。彼らは現在の修行方法に悩んでいるらしく、日本人の僧侶である私に感心を持ち、一緒に話をした。
彼らの内の1人が、世界で起きている戦争や、社会の中の様々な問題に心を痛めているが、師事している僧侶にどう思うかと聞くと、“その様な問題に囚われるべきではない。物事を善悪で判断してはいけない。己という迷いを捨てて心をおさめなさい。”(うろ覚え。何となくこんな内容だったと思う。)と彼らに話すらしい。
彼らは仏教がとても素晴らしい教えであると思うが、世界の現実的な問題に関与しようとしない仏教徒達に疑問を持っているようだった。
彼らから「あなたはどの様な修行をしているのですか?」と聞かれた。私は自分が仏教やガンディーの思想に出会った経緯などを話し、現在沖縄で座り込みをしたり、平和行進をしたりしている事などを彼らに話した。
台湾仏教は出家主義で、遁世的な性格を持っている事から世俗社会から一定の距離を置き、閑かな環境で修行生活を送る。(大多数の仏教徒はこの様なスタンスに近いと思う。)
後から彼らは以下のメッセージを送ってきてくれた。
「今日、時間を割いて私たちと話をしてくれたことに深い感謝とお礼を申し上げたい。あなたのおかげで、私がずっと抱えてきたとても大きな葛藤を解決することができた。どちらかである必要はないし、両方であることもある。ありがとうございました。」
最初、話しがしたいと言われた時は、“教学的な問答は嫌だな~”と思って緊張したが、話してみるとお互いに有益な時間となった。
台東は都会の生活に嫌気がさした人達が移住したり、小旅行に来たりする場所という一面を持っている。
それと、台東には原住民(先住民とは呼ばない。理由は先住民という言葉の意味が既に居なくなった人々を指すからだという。)の村が多く、漢民族系の台湾人達は彼らの自然と共生した生き方に敬意を持っているようだ。又、台湾人として彼らに対する贖罪の念もあるのではないだろうかと想像したりもした。(過去に漢民族と原住民の闘いがあった)これは沖縄に住む東京出身の私と近い感覚なのかなぁと思った。

【何故台湾が民進党を選び続けているのか?】
日本をはじめ、海外メディアでは『総統選で民進党が勝ったら戦争の可能性が高まる!?』
という警戒する声が聞こえてくる。
それは欧米発信の情報(日本も含まれる)を得ているとそう見えてくる。
確かに台湾でも新聞やニュースを見ているとよく中国の軍事演習などが報道されているし、中国の衛星ロケット発射にスマホの緊急アラーム鳴ったり、皆それなりの緊張感は持っている。
しかし海外と台湾との認識にはギャップがある。
国民党が中国大陸から台湾に敗走してきた 1947 年以降しばらく中国との交戦状態は続き、中国のトップが変わったり、国際情勢などに左右されたりして中国の脅威が大小する時期はあっても一定の緊張状態は継続的に続いているという事の肌感覚だと思う。
みんなこの様な状況には慣れているのだ。今に始まったことではないし、まさか今、中国が台湾に侵攻してくることはないだろうと思っているのが大半の台湾世論だと思う。
しかし一つ重要な点は、現在に於いて武力侵攻を始めるのは台湾ではなく中国であるということだ。その様な点からも私達が台湾に中国を挑発するなというのは違うと台湾の人は思っているだろう。それは中国に言ってくれと。
『台湾はアメリカとの関係を深め、防衛力を強化し、中国との緊張関係を高めるのではなく、中国と話し合い、外交で問題を解決して欲しい。』
台湾国外の人達がこの様に考えるのは“台湾有事“が起きて欲しくないと思う故だろう。私も台湾に通うようになる前はその様に思っていた。
しかし、台湾の人達にその話をすると、嫌な顔をする人が多く、中国政府とはまともに話しなど出来ないと訴える。
現に中国政府は民進党政府との対話を拒否し続けている。
中国は台湾人が選挙で選んだ現政府ではなく、親中派とされる前政権の国民党となら話すというのが中国の姿勢である。
今回の台湾の選挙結果を受けて中国政府は次のように声明を発表している。
「今回の二つの選挙結果は、民進党が島内の主流の民意を代表できないことを示した。台湾は中国の台湾である。今回の選挙で両岸関係の基本的枠組みと発展の方向が変わることはなく、両岸の同胞が近づき、親しくなり、近づくほど親しくなるという共通の願いが変わることもない。祖国が必ず統一され、必然的に統一されるという大勢を阻むこともできない。
台湾問題を解決し、国家統一を成し遂げるわれわれの立場は一貫しており、意志は盤石である。われわれは「一つの中国」の原則を体現する「九二共識(92年コンセンサス)」を堅持し、「台湾独立」の分裂行為と外部勢力の干渉に断固反対する。台湾の関係政党と団体、各界の人士とともに、両岸の交流と協力を促進し、両岸の融合と発展を深化させ、中華文化を発揚し、両岸関係の平和的発展を推し進め、祖国統一の大業を推進していく。」
継続的に軍事的挑発を受け続け、対話は拒否され、経済制裁を受け、中国の外交圧力で僅かに残る外国との国交も少なくなっている。台湾は米中対立の渦中の駒とされ、どちらに偏りすぎても危険という状況にある。
『例え中国政府とは良い関係を築くのは無理でも、国民とは良い関係を築いた方がいいのでは?』
と私も考えたし、今もそう思う。
しかし、“言うは易し、行うは難し”だ。
2023 年 5 月 23 日、読売新聞記事より。
中国本土で過半数が「中台統一への全面戦争を支持」…シンガポール国立大学などが世論調査香港英字紙サウスチャイナ・モーニングポストは22日、シンガポール国立大学などが中国本土で実施した世論調査で、過半数が中台統一のための全面戦争を支持すると答えたと報じた。
調査は2020年末から21年初めにかけて実施され、1824人が対象。統一のための戦争を55%が支持し、反対は約3割にとどまった。台湾に統一を同意させるための戦争以外の方法としては、57%が「経済制裁」だとした。22%は「台湾が別の政治制度を維持していても構わない」と回答した。
そもそも中国に住む人で、中国政府の政策に批判的になることは大きなリスクを伴う。コロナ対策や経済施策に対する批判よりも更に台湾、新疆ウイグル、チベット問題等への批判は致命的でリスクも大きい。中国国内でこの事に言及することは不可能だ。例え海外にいたとしても、何処かで発言を聞かれ密告されれば、帰国後に様々な困難があるだろうし、家族にも影響が及ぶこともあるだろう。
私達人間は他人に対してよく「こうすればいいのに」とか、「何でこうしないんだろう」というふうに思いを巡らせてしまう。
でもこの様に考えてみると相手への理解が深まるし、不信感も無くなるのではないだろうか。
「何故その選択をするに至ったのか?」と。
相手の立場になって考えてみる。その為にはそこに至る迄の様々な経緯を知る必要があるし、台中関係の場合は近現代史も理解する必要があるし、台湾現地での雰囲気や感覚も必要になってくるのではないだろうか。
それと、当事者達(有権者)は様々な事を考慮し、また家族親戚の影響、多くの日本人が触れることのない中国語圏のメディアの影響等を受けてその判断をしていると考えるべきだ。
自分の国の物差しで相手の国の人達を判断するといつまで経っても理解できないだろう。
特に台湾の事を深く知らないのに、台湾人達の選択を早計に評価することは台湾人達を理解することに繋がらないし、結局はお互いの理解や認識に行き違いが生じてしまう恐れがある。
この事は現在もそして将来的にも両者にとって大きなマイナスとなりえることだと思う。

【台湾と向き合う】
最近、沖縄は中国との関係を深めようと努力している。
この事自体は沖縄県民も反対している人は少ないはずだ。日米中政府間の緊張関係が高止まりする中、多くの米軍基地や自衛隊基地を抱える沖縄県は東アジアの地域紛争を回避する為に信頼関係を作る努力をしている。
私も沖縄県民として、又日本人としてこの様な県政外交、市民外交は大切で継続していくべきだと思っている。
しかし、私達沖縄県民が注意すべき点は、公での中国側とのやりとりは中国政府の方針に沿ったやりとりしか出来ないということだ。
それは多くの台湾人の目から見てどう写るのか?
香港(チベットやウイグルもかな?)の民主化運動に関わった人達がどう考えるか?
何故ならば、台湾は中国政府から武力統一も辞さないという恐怖を与えられているし、香港も中国政府によって民主的な社会は奪われ、10 万人以上が海外へ出て行った。今や香港でも政府に批判の声をあげることは出来なくなった。台湾の人達はこの香港に対する中国政府の一連の弾圧を目の当たりにし(香港から台湾に逃げてきた人もいる)“今日の香港、明日の台湾“という言葉が台湾で流布した。
沖縄が中国との良好な関係を築くことは大事だが、台湾の人達の中国に対する思いよく理解しておく必要があるし、台湾とも更に深い交流を持つべきである。
そうでないと台湾の人達から沖縄が中国との外交を重視する意味を理解してもらえないし、誤った認識を持たれてしまう。
この構図を頭に入れて、私達はもっと深く強く繋がることが必要である。
台湾の現政権(民進党)を支持する層は高齢世代よりも中年世代から若者が多い。政策も保守系ではなく革新系のものが多い。
一国の政治を保守・革新で分けてしまうから混乱が生じてしまうのだが、台湾の現政権である民進党は二大政党のもう一つの国民党と比較すると革新的、民主的な政党になる。
しかし安全保障政策では軍事費を増額、徴兵の期間を延長、米軍との関係強化する方向性だ。(しかし、安全保障政策では国民党も民衆党も大きく異なるものではない。それは何故かというと国民全体が中国の軍事的脅威を認識しているからだ。)
台湾で安倍晋三元首相の人気があるのは「台湾有事は日本有事」との発言に見られるように、日本は決して台湾を見捨てないという、メッセージを発したからだ。

日本の植民地である沖縄の現状の打開策の一つとして自己決定権や琉球独立論があると思う。それなのに台湾が自己決定権や台湾独立を主張すると中国と戦争になるからやめるべき”という考え方はおかしくないだろうか?
台湾は自国の領土を持ち、パスポートも有り、国民から選挙で選ばれた政府もいる。
台湾が国家として足りていないのは各国からの承認、即ち国交である。

【誰が台湾を今の状況にさせたの? 】
日本やアメリカをはじめとする国々は戦後中華人民共和国ではなく中華民国(台湾)と国交を結んでいたのはご存じだろうか?
中華人民共和国(中国)ではなく中華民国(台湾)が国連の常任理事国であったのだ。しかし 1971 年 9 月 25 日に第 26 回国連総会でアルバニア決議「中華人民共和国政府の代表権回復、中華民国政府追放」によって現在の中国が国連の常任理事国となり、中華民国としての台湾は抗議する形で国連を脱退した。
私達は台湾の防衛力強化は戦争への道だと心配しているけれど、その原因はなんだ?
圧倒的な国力で迫る中国から台湾が自らを守ろうとする選択を、私達の立ち位置から(沖縄が戦争に巻き込まれたくない)のみで判断するべきではない。安全地帯からの非軍事論という指摘があったとして、私達にどうやって反論できるだろうか?
私達、日本の憲法九条非戦派は、実は世界最強の軍隊に守られているからこそ非戦論を唱えることが可能だったのだろうか?
そんな思いが“むくむくっ“と生まれてくる。
もし沖縄にいる私達が台湾に対して非戦論、非軍事論を伝えたいのだとしたら、台湾の現状を理解し、台湾人の視点に立っても納得できるような非戦論を展開するべきではないだろうか。

【今回の台湾選挙の概観】
民進党(民主進歩党)は二期8年政権に居て既得権益化、汚職がある。でも、中国との関係に於いてはアメリカや多くの民主制国家との連携を上手く作り、中国に対しての一定の抑止効果を生み出せたという評価がある。
国民党、かつて一党独裁。大企業との繋がり。既得権益 親中国寄りで不安。台湾の世論は年々、自分を中国人ではなく台湾人として認識する、所謂台湾アイデンティティが強くなってきている。例え親中派と呼ばれる国民党といえども、中国寄りの主張できなくなってきている。(元々国民党が中国共産党の国共内戦を闘ったのだが。)
民衆党 「新しい政党が出ないと私達の(経済的に」苦しい生活は変わらない」、「民進党と国民党は互いを罵りあってばかり」、「一党による長期政権は良くない」と、二十代の5~6割が支持。ただ六十代以上は1割にも満たない。民進党が政党と認められた民主化以降国民党との二大政党政治で来た台湾だが、若い世代にはどちらも市民から離れたエリート政治に見えた。又、長い一党独裁の時代を経験した台湾社会には、民進党であろうとも、権力を長く持たせることには良しとしない感覚があるようだ。そして党首である柯文哲(KoWen-je)のカリスマによる人気。
今回民進党は総統選では再度勝利したが、立法院では過半数を有していた議席を失い、国民党が第一党となった。しかし国民党も過半数に届かず、第三党の民衆党が大きな力を手に入れた構図となった。

【終わりに】
人間社会は脅威を感じると、例えそれが不確定だとしても過剰に反応してしまうものだ。その事はナチス・ドイツの最高幹部の一人ゲーリングの言葉に詳しい「自分達が外国から攻撃されていると説明するだけでいい。そして平和主義者については、彼らは愛国心がなく国家を危険に晒す人々だと公然と非難すればいいだけのことだ。この方法はどの国でも同じように通用するものだ。」と。
仏教の考え方では、結果に至るには“因”が有り“縁”によって“果”が生じるとする。
その考え方に基づけば、結局は現時点では分からないというか、因と縁次第ではどちらにもなり得るという事になる。
私達はそうならない為の努力を積み重ねなければいけない。
“井の中の蛙、大海を知らず“ 私達人間は自分の見たい世界を見ている。
自分の理解の及ばない事や、見たくないモノに出逢うと、否定してしまったり、見なかった事にしてしまったりする。
私自身、そうならないように気をつけたい。
私の頭の中で台湾が何を望むかを想像する。
“他国と国交を結ぶこと。国連に復帰加盟すること?”
しかしこれは台湾が望んでも、中国が決して許さないものだ。
私は巨大な力を持つ組織や人間達の願いではなく、私が出会った人達、これから出会う人達の願いが実現する世界であって欲しいと思っている。

南無妙法蓮華経
合掌



