沖縄からみえる世界   地球・生命・宗教・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

2023年ゴールデンウィーク大熊町帰還困難区域

大熊町帰還困難区域

 

5月4日から7日にかけて福島県大熊町に行ってきた。

木村紀夫さんと義岡翼さんの二名で運営する「大熊未来塾」は帰還困難区域、中間貯蔵施設などの現地案内や講演活動、季刊誌の発刊等の活動を通して、原発震災からの経験やこれからの人間社会の在り方などを伝える、伝承活動を行っている。

今回は木村紀夫さんの次女、木村汐(ゆう)凪(な)(当時七歳)さんの遺骨を探す、捜索活動に参加させて頂いた。

宿は富岡町のゲストハウス135という所でした。

 

初日、木村さん達と合流する前に“捨石塚”という、戦時中に特攻兵として訓練していた若者たちが、積み上げたと言われる小さな丸い石積みの跡にお参りしてきました。

現在の福島第一原子力発電所の敷地周辺は戦時中、特攻隊の訓練場であったらしく、滑走路があったといいます。

又、海側には特攻挺の秘匿場であった事も知りました。

特攻兵たちは訓練だけではなく、戦時中に逼迫していた燃料の増産の為、山の木で炭を生産していました。

その折りにひとり又ひとりと特攻兵として戦地へ向かう仲間が出る度に、海岸にある丸い掌(てのひら)大の石を積んでいったのだそうです。

未曾有の福島第一原発事故を引き受けさせられたこの地域の苦しみを、過去の特攻兵たちの避けることの出来なかった、“お国のため”の犠牲となっていった姿と同じとは言わないまでも、重なるものがあるように思えてなりません。

 

 

衝撃的な光景でした。

人間の住まなくなった町の風景。

2045年に帰郷すると書いた石碑がかつて在った家の跡地に立っていました。

もぬけの小学校、草が伸びすぎて見えない校庭だったはずの所。

綺麗な新築みたいで今でも住めそうな家も在れば、屋根が崩れ、中まで見える家。

お寺も、屋根が崩れ中が見えていました。

公民館は海側の半分が無くなった状態で残っていました。

その隣には諏訪神社が在り、手前の拝殿は流され、少し高いところに在る本殿は残っていました。ここでは地域の催しをよくやったようで、伝統の祭りもしていた町の中心的な所だったようです。ぼろぼろになった本殿の扉を開けてみると、丸い鏡が手前に倒れていました。木村さんがその鏡を立てて、またこの神社を再興したいと言いました。

 

中間貯蔵施設では大きな工場のような建物が建っていて、運ばれてきたフレコンバックの中身を分別し、土は遮水シートを敷き埋め立てます。(広大な埋立地が幾つもあるようでした)燃える物は焼却し灰にして廃棄物貯蔵施設に保管します。

県内から集まったフレコンバックの量は相当あったはずですが、だいぶ減量化が進み、フレコンバックはあまり見当たりませんでした。

 

福島県内の各地から放射能に汚染された土やゴミ(廃棄物)が大熊町に(双葉町にも)集められていました。

 

思えば原発震災以降、2013年から福島県内を慰霊と核問題をテーマに歩いてきましたが、浜通り中通りの各地に集積されていた“大きな黒い袋”フレコンバック(放射性汚染物)の集積場は年々見られなくなっていっていました。

福島第一原子力発電所の立地町である双葉町大熊町に中間貯蔵施設が作られ、2015年から2045年迄の30年間限定で、この地域に仮置きし、それから最終処分場へと運びだすという国の計画から全て此処に集められているのです。

国の発展の為に造られた原発は、高度経済成長期を無事に生き抜き、十分に人々を肥やした後、事故を起こしたのです。

事故が起きた当時こそ、首都圏に住む人々も右往左往し、反省したり、今までの社会の在り方に疑問を持ったりしていましたが、13回忌を迎えた今年の首都圏の様子、更にコロナ・パンデミックからいよいよ抜け出せた雰囲気の中で迎えるゴールデンウィーク中の人々の意識は、大熊町で高い放射線量の中、女の子の遺骨を探す人々の意識とは大きな乖離があります。

(この女の子=木村汐凪さん。津波の後、原発事故による避難指示で捜索隊も瓦礫などに埋まってしまっている人達の捜索・救助を諦めざるを得ませんでした。しかも、捜索隊の証言では、声が未だ聞こえていたのに諦めざるを得ませんでした、ということは、助けられたかも知れない命が原発の事故によって犠牲になってしまったということなのです。そしてさらにそれはもしかしたら、木村汐凪さん、木村王太郎さん、木村深雪さん(木村紀夫さんの娘、父、妻の順、父と妻の遺体は震災後見つかっている)は助かっていたかも知れないという事なのです。)

 

福島県内も同じような気分が創出されていて、震災からの復興という前向きな出来事やイベントは大いに賞賛され、人々が集まり、メディアも喜々として伝えますが、放射能関連の事となると、メディアは積極的に、批判的に、調査報道的に伝えているという事はなく、放射能関連、原発関連の話題はあいかわらずタブー視されていて、表だって話題にはならないのです。

 

事故で一旦飛散した放射性物質は、まるで人間社会の抱えきれない欲望がはじけ飛び、そしてまた、人々の無関心と現実逃避の欲求が、それらの毒を立場の弱い地域に押しつけ、忘れ去ろうとしているかのように見えます。

 

こんなネガティブなことばかり書いていると、誰も読みたくない気分にさせてしまうかもしれません。

しかし、人間の存在の根本が“苦”であると仏様は悟り、説いた事を思うとき、苦しい現実に向き合うことを避けることは、この世の真理から遠ざかることだとおもうので、直視したいとおもうのです。

 

大熊町滞在中に私の脳裏に浮かんだ言葉があります。

福島県三春町在住の武藤類子さんが雑誌のインタビューに答えていた言葉で「私達は絶望することさえも奪われてしまった」。絶望するところからしか立ち直れないのに、絶望すらさせてくれず、「復興復興」と一見前向きな言葉で、深く考えること、社会として反省する機会を奪われている。といった様な内容の話しをされていて、それが今回の旅で思い返されました。

 

今回、遺骨収集の合間に半日だけ木村紀夫さんに大熊町の帰還困難区域内と中間貯槽施設の区域を案内してもらいました。

 

少し説明すると、まず帰還困難区域は許可証を持っていないと入ることは出来ません。

私達は木村さんと一緒に、帰還困難区域に入る前にスクリーニング場と呼ばれる、立ち入りの事前と事後に寄る場所で、名前と住所と生年月日を記入し、首から掛ける線量計(積算)を受けとり、放射性物質の防除服(区域内から放射性物質を服に付けて持ち帰らないため)を貰い(貰わなくても良い)16時までに区域から出なくてはいけませんでした。

 

6号線の海側に開閉式のフェンスがあり警備員が立っているので、許可証を見せてから中へ入ることができます。

持参の線量計がうまく動かず、区域内に設置されている線量計を幾つかチェックしました。

毎時0.4μ㏜、0.6μ㏜、1μ㏜、4.25μ㏜と場所によってその差がありました。

帰還困難区域の外に在るスクリーニング場は毎時0.22μ㏜と表示されていました。

 

私は域内に計6時間滞在し、計6~7μ㏜の被曝量となりました。

ということは、一時間の空間線量が約毎時1~1.16μ㏜ということになります。

 

私達は原発事故以前には放射線や被曝の知識に乏しかったです。

私自身の経験で言えば、2013年から毎年福島、東北地方を命の行進で歩く中で、自分なりに知識を得、東北で出逢う人々達の放射能に対する考え方や接し方を見聞きして行く中で、自分の許容範囲というものを設定していったのだと思います。

 

1μ㏜という数値に対してどの様に感じるかは、この12年でそれぞれの人生の境涯で、それぞれの処し方が生まれたと思います。

 

 

中間貯蔵施設に集められた放射性廃棄物2045年迄に県外の最終処分場を新たに探し、そこに持って行くことが法律で決められています。(はたして見つかるのでしょうか?)

 

この事についていくつかの意見を見聞きしました。

 

・せっかく危険な放射性廃棄物を一カ所に集めたのだから、ここから動かすべきではない。

現在の中間貯蔵施設で永久的に管理するべきだ。

又、放射性廃棄物の県外への移動によって、新たな分断や、その他の新たな問題が生じてしまう事を懸念する。

 

・国策によって、それも首都圏の為に稼働されていた原発事故の責任については福島県原発立地自治体のみに押しつけるのではなく、国民全員が責任を負うべきではないか?

各地にしっかりと管理した小規模の放射性廃棄物の最終処分場を設置し、国民が原発事故とはどの様な結果を生じるものなのかを身を以て学ぶ場にする事ができる。

 

私は以前はどちらかといえば前者の考え方でしたが、後者の意見を知り、多くの日本人が原発事故や放射能問題で苦しむ福島の人々をよそに原発回帰へと向かう中、そういう責任の取り方を提示されたことは衝撃と同時に否定は出来ないと感じました。

 

私の責任ということから考えると、毎時1μ㏜の空間線量を自分の許容範囲と考えるのも、私達が暮らしてきた東京を中心とした社会の根幹である電力供給の為に、原発事故が起こり、放射能汚染が起きた。線量の高い所に敢えて自身の身を置くことは、私が所属する社会が起こした結果に対して責任を感じるからであり、自分自身への免罪符の為でもあります。

そして、理由があってそこに住む事を選択した人達と関わることが自分にとって大切だと思うからです。

 

そこに住んでいる人達と少しだけでも一緒に時間を共にする事で、自分自身の責任を果たしていると思うようにしているのかもしれません。

 

こんな話をしました。

彼、「この果物は30ベクレルだから、基準値内なんです。だからまぁ、食べられるんですよ」。「この野菜は80ベクレルとちょっと高いですが、基準値内ではあるので、食べられないことはないんです」。

私、「えぇ…」。

この地に居続けることを選んだ人の「言葉」に私は「30ベクレル、80ベクレルでも高いと思います」。「私は食べられないです」。とは言えませんでした。

 

モヤモヤ、モヤモヤ…

人間はいつも色々な問題について、ひとつの答えを見つけたいと思うものだけど、ひとつの答えというものは無いんだと、私は思う。

 

とにかく、相手の決定、その人の出した選択に敬意を持つ事。想像力を働かせること。

そんな事が、特に今の“分断分断”と叫ばれる時代には必要なような気がします。

 

今回の福島来訪は5月の暖かい季節でした。

私は今まで、2月や3月のまだ寒い、木々や植物が、ひっそりと、灰色に覆われている時期に福島に来ていました。

いつか、福島、東北に春や夏に来てみたいと思っていました。

今回、山道に入ると、多くの花々が咲き、小川の流れる音、鳥たちの鳴き声が聞こえ、とても気持ちの良い所だなぁと感じました。

同時に、人に棄てられた家々が寂しく朽ちていて、元々畑や家で在っただろう所にソーラーパネルが並んでいました。

 

私達はなんて取り返しのつかない事をしてしまっただろうと思うのと同時に、それでも、この大地も海も、すべてを飲み込み、結局は人間の犯した過ちも、あらゆる営みも、宇宙に在る無数の星たちの世界から見れば、ほんの一瞬の、小さな出来事なんだろうかと思わずにはいられないのです。

だからといって私達は、人生をむなしく感じる必要はないと思うのです。

良い行いを努めることで、自身も幸福を得ていけるのですから。

 

南無 常不軽菩薩

南無妙法蓮華経

大熊町

フクイチ排気筒

養殖場