沖縄からみえる世界   地球・生命・宗教・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

香港のデモに参加している人と沖縄で出会った件

2012年、インドから日本に戻ってくるときに香港に立ち寄った。

 

4~5日程度しか居なかったけど、市街地のネオンの量に度肝を抜かれた事を覚えている。そして、アフリカ人がたくさん居たことや、インド人やフィリピン人などもレストランや家政婦として働きに来ていた。

2泊泊まった重慶(ちょんちん)マンションというビルの中にある、有名な安宿に泊まり、ベッドバグ(南京虫)に噛まれた記憶は忘れられない。

また、その他の2泊は郊外のお寺にお世話になった。

 

香港を出てから分かった事だが、香港には英字の新聞があり、中国政府が載せないような記事が出ていた事を覚えている(ダライ・ラマの記事がトップだった)。

香港から一歩出て中国圏内に入ると、英字新聞は見当たらなかった。

宿泊も外国人が泊まるホテルは政府公認の外国人宿泊許可を持っているホテルにしか泊まれないという制約があった。(安宿は該当しない場合が多い)

 

 あれから8年。

香港では前代未聞の参加者数、100万人規模のデモが続いている。

昨年の11月にそんな香港のデモに参加している、著名なAu Loong Yu氏と学生1名が沖縄にやってきた。

 

彼らと出会う機会を得た私は少し、今の香港情勢について伺うことができた。

 

その前に、まずは香港のデモの基礎とも言える彼らの要求は何なのかを復習しておきたい。

 

いわゆる、五大要求

 

1,今回の香港デモの発端となったのは「逃亡犯条例の改正案」の完全撤回犯罪者を中国当局まで引き渡せるようにする)です。

 

2,市民活動を「暴動」とする警察と政府の見解の撤回

 

3,デモ参加者の逮捕、起訴の中止

 

4,警察の暴力的制圧の責任追及と外部調査実施

 

5,キャリーラム(林鄭月娥)行政長官の辞任と民主的選挙の実現

 

 

二人に会って、話を聞いて、改めて画期的だなと感じたのは、五大要求デモにはリーダーが存在しないということ。

Be Water, My Friend. という言葉はブルース・リーの有名な言葉らしく、香港のデモでもこの言葉を用い、流れに任せた、柔軟な動きを、様々な小さなグループが行っていることで、政府権力は弾圧する狙いが定められない。

 

以下はその学生が書いた文章なので、紹介したい。

 

 

★暴力のレベルアップと非暴力派のジレンマ───運動の現場から
陳怡(香港暴政の目撃者。本文は個人の見解であり、全ての非暴力派を代表するものではありません)
2019年8月14日
原文
https://opinion.udn.com/opinion/story/10124/3988001
2014年の雨傘運動からのことだが、香港社会運動の配置は非常に広い。イデオロギー的には本土派、泛民主派、左翼などがあり、実際の行動では勇武急進派と平和理性非暴力派(略して和理非)がある。泛民主派と左翼は一般的に「和理非」を主張し、本土派はだいたいにおいて勇武派を構成している。(原注1)
原注1:一般論であり、すべてがそうではない。それぞれのスタンスは幅があり過ぎてここでは言い尽くせない。
兄弟それぞれ頂上を目指せ
雨傘運動の失敗(という定義をする人たちもいる)の理由の一つに、運動内部の分裂と矛盾をあげる人は結構多い。なので反送中運動がはじまった当初、勇武派と和理非派が矛盾を見せた時に、かつての轍を踏まないように次のような認識を確認した。「席を割らず、仲たがいしない、後ろ指を指さない」、つまり「分裂しない、裏切らない」ということである。
雨傘運動の「メインステージ」(運動呼びかけのプラットフォームを指す:集会の壇上―――メインステージから指示を出すというイメージから)であった泛民主派は運動の衰退にともない、本土派から嘲笑と攻撃の対象となった。とくに運動を独占し、他の勢力の台頭を抑えつけると考えられたからだ。反送中運動が始まってからも、「メインステージ不要論」が言われ、「兄弟それぞれ頂上を目指せ」(それぞれがそれぞれのやり方で頂上を目指せ)が強調された。
この呼びかけは確かに素晴らしい効果を果たした。とくに民衆が運動の参加する際の自主性を励ました。反送中では多くの自発的な運動表現がおこなわれた。たとえば各地でつくられた「レノンウォール」(壁にメッセージを張りまくる)、ウェブ上や街頭にはさまざまなフライヤーがあふれ、宗教団体、中高年のグループ、母親、医療スタッフなどがそれぞれ大小さまざまな
集会やデモを行った。
こうした運動が「各地で花開いた」結果、香港の社会運動の意識は高まり、五年前にくらべて成熟した。
100万の平和的デモが衝突と暴力的弾圧に変わるとき
二か月にわたって続いている反送中運動の情勢は、人々の想像を超えるほど変化が速い。とくに警察とプロテスターとの緊張関係は激しさを増しており、世界中がドキドキするほどだ。とはいえ国際的に大きな注目を集めた最初のデモは、6月9日の100万人デモのである、平和的デモも効果のあることが証明されている。
しかし、林鄭月娥行政長官が挑発的に「予定通り法案を審議する」という公式発言は、100万の市民の意思を無視したとして人々の怒りに火をつけ、(6月12日に)最初の警察との衝突を引き起こした。香港政府が問題の対処においての能力のなさを露呈したと言える。
このとき、プロテスターに対する周りからの疑問は「なぜ突撃する必要があるのか」ということであった。「和理非」の一人である私は、警察と衝突しないという原則を守ってきたが、勇武派の行動にも複雑な感情を抱いていたことも事実だ。
認めなければならないが、もし6月12日に衝突がなく、平和的な集会だけにとどまっていたら、その日に法案は採決されていただろう。結局のところ、暴力的衝突が起きたのは平和的デモやっても無駄だということを香港政府自身が示したからであり、そのような政府の態度がデモ戦術のレベルアップを引き出したである。
では6月15日に林鄭月娥が法案の審議を中断すると言ったのに、どうして人々の怒りは収まらないのだろうか。一般的に言われているのは、中断と言っても後から審議が強行されるのでは意味がなく、法案の完全撤回(廃案)を人々が求めているからだ。私や他の友人らは「中断」は「撤回」とほとんど同じであり、現状から言えば審議の再開はほとんど無理だろうという認識だった。にもかかわらず「中断」で納得しなかったのは、要求が法案の去就だけに止まらなくなったからだ。
6月12日に私も現場にいたし、中継を見ていた多くの人々もそうだが、警察のあまりの暴力濫用を絶対に受け入れることができない。かりに法案の審議が中断されたとしても、警察の不当な暴力については絶対に追求しなければならないと思っている。
しかも6月12日の衝突は、香港政府が6月9日の100万デモの声を無視したことによって作り出されたのであり、それに責任を負うのは政府の方であり、私たちプロテスターの方ではない。今の状態で法案審議の中止だけを受け入れることは、6月12日に負傷した仲間たちを見捨てることと同じになる。
バラバラな「和理非」と勇武派の政策
「和理非」、勇武派各自為政
運動の焦点が6月12日から、警察の職権乱用に対する怒りに移ってきている。また6月15日には法案反対を訴える一人の青年がビルの上から墜落してなくなり、悲しみに包まれたことが、200万人のデモにつながったことは確かである。この力をいかに持続させ、今後の運動につなげていくのかが今後の運動の勝敗のカギを握っている。
6月21日の警察本部包囲行動には私は参加しなかった。理由は簡単だ。わたしはウェブ上で行動の様子を調べたが、この行動の獲得目標とどこまでやるのかという方針を明示されていなかったからだ。衝突するのか、するならどの程度までやり合うのか、撤退の方策は如何なっているのか、弾圧されたときの支援体制は等々、私の疑問に答えてくれる回答は見つからなかった。
「メインステージ」のない運動にはたくさんの人が参加できる。しかしたくさんの人が集まった集会で、責任団体もなく明確な指示もないことは、その集会がどうなるのかという予想がつかなくなってしまう。もし平和的デモの支持者がその集会に参加して、突然予告もなしに衝突が始まってしまったら、衝突を望まないデモ参加者がその場を無事に離れることができるかどうかは分からないからだ。
その後、勇武派と和理非の間には暗黙の了解ができて、民陣のデモが何度か行われたが、勇武派は集会やデモの終了が宣言されてから、さらなる行動を開始するようになったので、平和的デモの参加者が巻き添えを食うことはなくなった。
暴力のレベルアップで去った一部の市民
7月1日の勇武派による立法会突入では、その直前に民主派の議員らが先頭で思いとどまるように説得していたが功を奏しなかった。その後7月に入り、毎週のように香港各地でデモがおこなわれた。7月14日の沙田の新城市広場(ニュータウンプラザ)での包囲戦、7月21日の元朗ヤクザと警察の結託など、よくご存じだろう。8月5日には三罷(労働者のスト、授業ボイコット、商店休業)が実施され、香港の7地区での集会は、最終的に暴力的衝突に発展した。
衝突のヒートアップに伴い、「和理非」の間にも分岐が生じた。「深く黄色」(黄色は民主派の色で、根っからの民主化支持者、くらいの意味)の人々はプロテスターらに同情し、様々な方法で支援の手を差し伸べるようになる。たとえば車で現場まで送り迎えする、レストランのクーポン券や物資をカンパするなど。なかには前線まで赴いて負傷したプロテスターを運び出す手伝いをする人もいた。
それと同時に、「薄い黄色」の人々は衝突方針に賛同せず、運動からも離れていってしまう。世界中の注目が勇武派と警察の衝突に集まっていたが、運動から引いていったこれらの人々に関心をしめすことはほとんどなかった。
和理非の原罪
6月9日の最初の逮捕者が出たときから、和理非(民陣、民主派議員らを含む)は、ずっと勇武派の攻撃対象になっていた。まるで「分裂せず」のかけ声など気にすることなく批判の声は続いた。6月9日以降、多くの若者たちはこう食って掛かった。「ぼくらが殴られたり捕まったりしたとき、どこにいたんだ」と。しかしあの日(6/12)の中継を見れば明らかだが、民陣の呼びかけ人らはずっと現場で警察とプロテスターとの衝突を緩和しようと努力していたのだ。言ってしまえば、「どこにいたのか」という彼らの非難は、「なぜ一緒に衝突に加わらないのか」ということに他ならない。
今まで、泛民主派議員や民陣の活動家のすべてが、政府の暴力こそが問題の根源であることを公言している。にもかかわらず、勇武派から「和理非」への非難の声はあちこちで聞かれる。
7月14日の沙田事件後[デモ後、警察が催涙弾を使ってショッピングモールなどにデモ参加者を閉じ込めたりして40人以上の逮捕者が出た]の翌日、多くの市民が新城市広場(ニュータウンプラザ)のインフォメーションカウンターを市民らが包囲して、なぜ警察をショッピングモールの中に入れたのか納得のいく説明を管理者に迫ったとき、民主党の林卓廷立法議員[若手で党幹事長]もその場にいた。その場に危険な武器をもつ市民がいたので冷静になるように林議員が呼びかけたのだが、その場にいた勇武派の支持者らに「運動の分裂を許さない」などと詰め寄られた。
集会やデモが終わったときに、和理非派が平和的解散を呼びかけただけで、「分裂」と非難されてしまう。
議論も協力もなく
8月5日の夜、私はひとりであちこちを見て回った。プロテスターが段ボールを積み上げて燃やしていたので、どういう目的で火を燃やしているのかを失礼のないように礼儀正しく聞いた。ところがこのプロテスターは「とくに目的はない」と一瞥しただけで作業を続けた。さらに5分ほどたったあとで、もう一度目的を聞いたところ、プロテスターの一人が「分裂を許さない」と叫んだ。
私はすぐに、質問したのは非難するためではなく、どういう戦術目標があって火を燃やしているのかを知りたかっただけだと伝えたのだが、返事はなかった。その後、消防車がやってきた(プロテスターが119番したと思う)。火はもうほとんど消えかけていたのだけど。警察が前に出てこないように消防車を呼んだのではないかとさえ思った。
消防車が仕事を終えてその場を去ろうとしたとき、その後ろから十名ほどのプロテスターが消防車のあとについて前の方へ駆けて行った。わたしの隣にいた他のプロテスターは、あいつらたぶん自分たちの防衛線をもうすこし前に進めようとしたんじゃないかとつぶやいた。意図がつかめないプロテスターたちも消防車についていったがうまくいかず、結局、消防車だけが走り去って、あとからついていったプロテスターたちは仕方なく元の場所にもどってきた。
これはほんの一例にすぎない。これまでの観察のなかで、勇武派はそれぞれの小さなグループの集合体に過ぎず、何か問題を提起すると「仲間割れはやめろ」と言ってくる。議論も協力もなく、それぞれやりたい事をやっている。勇武派を良く知る人によると、勇武派は非常に分散しており、大きくてもせいぜい10~20人ほどのグループだという。もちろん「メインステージ」(指導者)などないが、唯一のコンセンサスは大規模な行動がある時に一斉に登場する。しかし具体的な戦術や目的はそれぞれバラバラだという。
中国政府と香港政府によると、このようなプロテスターは外国勢力が操り、グループごとに訓練を施しているという。なんとも壮大なジョークだ。もし本当に外国勢力が訓練を施しているにもかかわらず、こんな程度のレベルでしかないのなら、その外国勢力の能力もたかが知れているではないか。
「メインステージなし」と「分裂しない」が拘束衣にかわる
勇武派が誰からも操られていないがゆえに、泛民主派議員や民陣は彼らとの対話や協力がまったく要領を得ないことに頭を悩ませてきた。勇武派に交渉を申し入れたとたん「ヘゲモニーを握ろうとしている」と非難される。勇武派の急進化に対して受動的にならざるを得なくなる。
暴力的衝突は注目され、世界のメディアもそこに集中する。だが反送中運動の多数派である和理非派はそれによって周辺化され、重要な作戦的位置を失う。どのようなアクションをしたとしても関心や反響が限定される。平和的デモも最後の局面で勇武派の衝突にとって代わられる。平和的ストライキも最後には警察による勇武派への弾圧で幕を閉じる。
さらに残念なことは、和理非派は勇武派に実力行動を思いとどまらせることができないことだ。「ヘゲモニーを握ろうとするのか、分裂しようとしているのか」と非難されてしまうからだ。
わたしが勇武派の実力路線に反対なのは、人道的観点からではない。たんに勝算がないからだ。もし双方の武力が拮抗していたり、香港人の大部分が革命に殉じる用意があるのなら別だが、そんなこともない。ストライキや不服従運動(座り込みなど)でさえ、理想的な参加には程遠い。ストライキですら準備できてないのに、それ以上の代償をこうむる暴力的衝突など、方針としてどうなのか。
みすみす逮捕者をだすだけで自軍の勢力を弱めることになる。逮捕者は700人を超えた。情報通によると勇武派の半分ほどになるという。新たに勇武派に加わる人間がでないことにも頭を悩ましているという。今後の衝突の規模は小さくなると予想される。
平和デモでさえ逮捕される
8月11日には現場にいた女性プロテスター(医療スタッフとも言われている)が右眼を撃たれた。翌日8月12日には私は他の香港人たちと一緒に国際空港での抗議のシットインに参加した。その日のすべてのフライトがキャンセルになったが、機動隊も空港に展開するという情報が流れたとき、わたしはその場から立ち去ることを選択した。
というのも飛行機を止めるという目的はすでに達成されたからだ。加えて、このかんの警察のひどい暴力行為を観ているので、平和的にその場を離れることが賢明だと思ったし、「Be Water」の精神にも合致するだろう。そうしたところやはり非難を受けた。だが何のためにその場にとどまり続けるのか。私を非難した人間に聞いても説得力のある答えはなかった。
8月13日に空港を麻痺させたが、これは和理非の行動であっても同じように効果があることを証明した。しかしプロテスターの一部には警察のスパイだと疑われた男[中国本土のタカ派メディア『環球時報』の記者だった]を結束バンドで拘束して、身分証明証を曝し、スマホの中身を調べて、医療スタッフが彼を運び出すことを制止したりして、最後には警察が介入してプロテスターが逮捕されて、警察が拳銃を向ける局面になったことで、和理非派の運動はまたや乗っ取られてしまった。
この事件で堪忍袋の緒が切れた。とくにこのかん、プロテスターたちは警察が人権を無視して、身体や家宅の捜索をしたり、逮捕したりすることを非難していたのに、8月13日には同じことを身元不明の人物に行い、同じように人権侵害をおこなったのだ。
この事件までに、和理非派はすでに、板挟みにあっていた。勇武派に不満をもつ人たちが運動から離れないように説得しつつ、「分裂しない」という原則を守らなければならなかったからだ。勇武派による実力行動は、平和的デモを禁止する口実にも使われた。和理非派の平和的アクションのスペースは、勇武派の行動によって縮小させられていた。
8月13日、民陣は8月18日に平和的デモを行うことを公表した。和理非派は断乎として運動に戻ってくることを強く宣言した。記者会見では「ネット上では今回は衝突の事態を避けて、和理非派になるという声が大半だ」と述べて、発言権を取り戻す努力をしている。それが功を奏するかどうかは8月18日に勇武派が休戦するかどうかにかかっている。(※訳注三章)
8月13日を経た今、もし勇武派が依然として対話もせず協力をもしないということであれば、和理非派は真剣に「分裂」の条件を考える必要がある。この運動で一番犠牲を払っているのはカメラに映る人々ばかりではないだろう。犠牲を厭わない姿勢を、実際の運動に資する形で示すべきではないか。勇武派への理解を示すだけにとどまらず、勇武派の諸君が和理非派の突き当たっている困難に思いを馳せるよう言ってはもらえまいか。
※訳注:8月18日には170万人のデモが実現し、大きな衝突も発生しなかった。しかしこれ以降、12月8日の88万人デモまで、民陣のデモは許可されなくなる。