沖縄からみえる世界   地球・生命・宗教・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

辺野古キャンプシュワブ前座り込み報告~2019年の終わりに~

辺野古キャンプ・シュワブ前の座り込みは2014年7月に始まった。
5年と5ヶ月が経過した2019年12月現在も土日を除き連日座り込みが続いている。
今後も1年2年3年、いや、5年10年20年と続いていくのだろうか。

 

朝9時、大型トラックの一団がパトカーに率いられてやって来る。(何故?パトカーが米軍基地建設の工事車両を先導してやって来るのか?安全のため??)
12時、二度目の工事車両の搬入。午後3時、三度目の搬入となる。
防衛局局員2~3名、軍警2~3名、民間(テイケイ)警備員約20名(交代制なので全員で何名かは不明)、警官20名(多い時は数倍増える)、国道事務局員1名、たちがいわゆる、警備上の理由から、配属されている。
一方、埋め立て用の土砂は名護市安和と本部町塩川から、船によって運搬されてくる。
此方にも勿論、海上の民間警備会社と海上保安庁の警備が付く。

 

命とは何か?と問われた時、一つの定義としてその生命が持つ“時間”と言えると思う。
その命とも言える“時間”を基地の前に座り込む事に費やす人生とはなんていうことでしょうか?目の前に広がる素晴らしい珊瑚礁の海で遊ぶのではなく、それを守る為に暑いコンクリートの路上で同じ人間同士が命を削っている。
悲しい沖縄の現実だ...だがこの現実は沖縄だけのものではない。

給料で雇われている警察も防衛局も海上保安庁も抗議行動の見張りの漁師もトラックの運転手も、警備会社も、お金を得ることで家族の暮らしを支えている。
基地建設や埋め立てといった行為が間違っていると感じようが、矛盾を感じようが、将(はた)又(また)やりたくなかろうが、やらなければ、家族は路頭に迷ってしまうのが今の社会である。
そう、彼らには選択肢が無いようだ。
沖縄の基地問題に於いても、世界規模の気候変動危機の問題に於いても、お金によって人間の活動が支配されてしまっているシステムを変えることなく、問題は解決できるのだろうか?

 

“誤ったシステムの中に正しい生き方は存在するのだろうか?”

 

私達人間は生命を維持する為に必要不可欠な、海や、土や、空気を、壊しながら、その行為でお金を貰い、生活をしてしまっている。
一方で、海を守る為に日々、身体を張る人達は生活の為に必要なお金をもらえず、お金がなくなれば、海を守る仕事を一時放棄して、お金を得る為に仕事を探しに行く。世界は何故こんな構造になってしまったのだろう。

 

地球温暖化の警鐘が鳴らされたのは30年も前、しかし温室効果ガスを排出することで、より良い生活を約束されたシステムの中で生きることを選んだ私達は、近所に在った森がいつの間にか無くなっていても、近くを流れる川が汚染され生態系が破壊されているのを知っていても、或いは、周りで環境汚染によって人や動物が苦しんでいても、私達は見てみない振りをしてきたのではないだろうか?

数百年前まで、4年に1種だった種の消滅のペースが、現在ではわずか1年間で約4万種にまで激増しているといわれている。
この地球上ではもう、人間に「有益」な家畜以外、種を存続させることが難しい状況になっている。
しかし、野生動物が住めない世界にはきっと、私達人間も住めないだろう。

 

誰かがやってくれるだろう、私は忙しい、地球は私達が少し汚したくらいでは何ともない、などと何の根拠もない言い訳を並べて、豊かな暮らしを続けてきてしまった。
これは、私の過ちであり、私達の過ちである。

先進国と呼ばれ物質的に豊かな暮らしを享受してきた日本の様な国が、とくに地球を破壊しているのであり、その結果としての異常気象で苦しんでいるのは、経済的に貧しく、自らを守る術が少ない国の人達であることは忘れてはいけない。

 

平和運動だと思い行動している私たちの足下は大丈夫だろうか?

世の中の問題認識は刻一刻と変化していっている。
もはや、飛行機に乗ることすらCO²を出すからといってやめる人達がいるし、食肉の生産が環境破壊の大きな原因になっている事から、肉食離れが進んでいる。意志決定の場に女性が居ないことは今や不自然であるとされている。

反戦平和のシュプレヒコールの後ろに置き去りにされてきた足下の問題に向き合う時が今来ている。
先日、辺野古の月例集会に組合いの若者達が大勢来ていた。恒例の議員団の話が続く中、「つまらない、早く帰りたい」と呟いていたそうだ。
そんな彼らが自分の意志で集会に再訪することはなさそうだ。

反省のないところに前進はないし、個の声を拾い上げることをしていかなければ、皆の心は離れていってしまう。

“生きづらさ”という言葉が生まれる今の時代に、仏陀がそうであった様に、個を大事にし、一人の人と丁寧に向き合うことを忘れずにゆきたいと思う。

 

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キャンプ・シュワブゲート前で祈念する僧侶