沖縄からみえる世界   地球・生命・宗教・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

仏教ってなに? について

 「ありとあらゆる事象は移り変わっていく、常識、価値観、習わし、伝統でさえも」

 

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今回「 仏教」とは何かという事を今一度、考えてみたいと思います。

 

仏教というのは英語ではBuddism。このブディズムという英語の言葉は、仏陀の教えという意味で使われています。
ここでは「宗教」という言葉は使っていません。
仏教とは仏陀の教え」という意味の言葉です。

それでは、「宗教」という言葉はどこから、いつから、どのような意味で、使われるようになったのでしょうか? 

 

「宗教」という単語は、じつは比較的新しい言葉のようです。
明治期に輸入された「Religion」という単語の翻訳語として、宗教という言葉は日本に生まれたとされています。

「religion」は、「宗教、宗派/宗旨、信仰/信条」などの意味を持つ単語です。  
語源の一つは、ラテン語の「religō(しっかり結ぶ)」です。
「再び」を意味する「re-」と「縛る/結ぶ」を意味する「ligō」から成っています。
「再び結ぶ」 ⇒ 「神と人間を絆で結びつける」という意味から、現在の「religion」=宗教という意味の言葉が形成されました。

以上の様な意味から、仏教=宗教というのはあまり適当ではないように思います。

仏教は「宗教」と呼ぶよりも、「教え」と言った方が適当だと思います。

例えば、医学の専門家のお医者さんは、患者さんに指示を与えて、患者さんはそれを実践し、それで病気が直すことができますが、それと同じ様に、仏陀は、健康のことや数学のことでなく、心というものについて教えてくれているということになります。

 

仏陀には幾つもの別名があって、その内の一つが“医王”です。

 

ブッダは病気を診ることを専門としていた医者ではなく、心にさまざまな苦悩を抱えた人に対して、苦悩から脱却することのできる道筋を示す専門家でした。
だから捉え方によっては、ブッダは心の病の医者でもあったといえます。
“医王“と呼ばれるのも十分納得できるのです。

 

仏陀はどうやって心を制御するのか、どうやって心の悩みをなくすのか、どうやって冷静でおもいやりのある人格を作るのか、そういう方法を教えました。

 

ですから、仏陀の教えを学んで、私達の心にある未熟さを直して、磨いて、いわゆる完成した人格を作ること、これを本当は「成仏」と言います。
本来は、亡くなることを成仏とは言いません。

成仏には他にもいくつか言い方があり、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)と言ったり、無上菩提と言ったりします。いずれも、「悟り」と同義語になります。

 

次に、ブッダとはなんでしょうか?


仏陀というのは、ある精神的な立場、状態です。
仏陀にも名前がありました。
お釈迦さまは、実存した歴史的な人物です。
ゴータマ・シッダルダ、姓がゴータマで、名がシッダールタです。
仏陀というのは「悟りを得た人」という意味の言葉です。
仏陀というのはBUDDHI(ブッディ)という名詞から来ています。
BUDDHIというのは、日本語で言うと、菩提です。
菩提とは、真理に対する目覚め、すなわち悟りを表し、その悟りを得る智慧という意味に近い言葉です。ですからブッダとは、智慧を完成した人という意味になります。

つまり、仏陀とは神とか、人間以外の何かではなく、あくまでも私達と同じ人間であります。

 

世の中にある医学、心理学、物理学などと同じように、方法を教えて、こういう風に実践してみればこうなりますよというような理論と実践の教えが仏陀の教えの一つの特徴です。

 

それでは、どうして現代社会が、とくに日本が宗教に対して、或いは宗教と聞いただけでも、怪しいと感じてしまったり、警戒感を懐いてしまうのでしょうか?

 

三つの点があげられると思います。

 

1、 僧侶の堕落。 多くの方が知らないことですが、仏教僧侶で結婚し、家庭生活をおくっているのは日本だけです。海外の僧侶は戒律を持ち生活していて、出家と在家の生活スタイルの違いがあり、世間からも敬意を持たれています。

 

2、 僧侶の不在。 昔からカルト的な宗教は存在していましたが、まじめな宗教の存在も世間に見える形で存在していました。現在は寺院の家庭化なども伴い、まじめな宗教者の姿が世間から消えてしまっているように思えます。
良い例が、僧侶が僧侶の格好をして外を歩かなくなってしまっている事や、在家の格好をして歩いている事、入りにくい雰囲気のお寺が多かったり、オープンなお寺があっても入場料をとったり、入っても僧侶は居らず、教えもないというような事があげられます。

 

3、 本来の教えの不在。 拝むこと、お願いすることが宗教であるという認識が広がってしまい、本来の教えである、道徳的な面や、論理的な面が、社会への奉仕や貢献などが多くの僧侶から発せられなくなってしまっている。

 

現代人が、現代の大半の宗教活動を見ていて宗教に親近感をもっていないのはあたりまえだし、仕方がないとおもうけど、それにしても仏教というのは智慧の教えであり、智慧の実践法であるので、日本で一般的に考えられているような「宗教」ではないと、申し上げておきたいと思います。仏教とは本来、普段の暮らしにとても役に立つ教えなのです。

 

是非、近くのお寺(日本のお寺はコンビニの数よりも多い)に行って、僧侶達に日頃の悩みや問題を聞きに行って下さい。

それこそが僧侶の役割なのですから。

 

もっと僧侶を使っていきましょう。仏教を役立てていきましょう。

 

次回は“苦”について考察を深めていきたいとおもいます。