2.28事件という出来事をどれだけの日本人が知っているだろうか?
日本が台湾を植民地として何年統治していたか知っていますか?
自分も、台湾に行く前は意識したことがなかった。知らなかった。
50年。1895年から1945年までの五十年。半世紀。
日本語教育、皇民化教育が徹底され、皆日本語を喋れた。そして台湾語。
しかし、中国語はしゃべれない。
そこに、中国大陸で共産党軍に敗れ、敗走してきた蒋介石率いる中華民国(国民党軍)がやって来るて、台湾を統治し始める。
《台湾では1945年前から居た漢民族系住民を内省人と言い、1945年以降共産党に敗れやってきた中国人を外省人と呼ぶ。台湾には先住民も居る。》
この時(1945年)日本軍はすでに敗戦し、台湾から撤退していた。
闇タバコを売っていた女性が、取り締まりをしていた外省人の取締官にタバコを没収され殴打されたことから、外省人に対する内省人の怒りが吹き出し、それを武力で鎮圧した事件を2.28事件と呼ぶ。
そして、その後の白色テロ(2.28事件以降の戒厳令下における国民党政府による反体制派に対する政治的弾圧のこと。1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの国民が投獄・処刑された。)の時代へと続く。
台北は西側が古い町並みで東側は新しい町並み。この写真は西側。
22.8事件から白色テロ時代へと、暗い歴史が続いたが、その責任者であるはずの蒋介石の公園が台北の中央にある。
多くの観光客が訪れる中正記念堂。近衛兵が2名立っていた。
台北にはあちこちにナイトマーケットがある。臭豆腐はあまりに有名。
1947年の2.28事件から白色テロ時代は1987年(昭和62年 )に戒厳令の解除ということで終わりを迎えた。
2.28和平公園にある紀念館が出来たのは1997年。
戒厳令下の台湾は中国国民党一党独裁体制で、政党結成の自由がなかった。
国民党に批判的な勢力が結集して設立した台湾史上初めての野党民主進歩党(民進党)である。1989年に政党結成が解禁となって合法化される。
地方で勢力を徐々に拡大して民主化改革を推進し、1994年に台北市長を、1998年に高雄市長を相次いで誕生させた。
2000年総統選挙では民進党の陳水扁が当選し、半世紀にわたる国民党支配に終止符を打った。
日本は、1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利を放棄したが、この講和条約には中華人民共和国、中華民国のいずれも参加しなかった。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府(国民党)との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日、日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交が回復した。
しかし、1972年日中国交正常化が起こると、台湾と日本は国交を断絶。
日本との国交はないから、大使館もない。
台湾と国交を結んでいる国はたしか、22カ国?くらいだったと思う。
大国中国の圧力(一つの中国)により、世界各国は中国に遠慮して台湾との国交を結べない。
台湾の現在の正式名称は中華民国。パスポートには中華民国と記載されている。
オリンピックにはチャイニーズ・台北として出場する。
台湾の中でも、内省人・外省人、国民党・民進党、中国派・独立派といった構図があり、複雑な状態。
台湾でもう一つ驚いたことは、アメリカに対する台湾人の考え方だった。
台湾の人に、沖縄の米軍基地問題の話しをすると、台湾の人は理解できない。
それは、台湾にとって脅威である中国から、アメリカ軍の存在によって守られているという認識があるからのようだ。
台湾の20代の人達と話す機会があった。
ひまわり運動をした人達だ。
ネットのおかげか、彼らは沖縄の米軍基地問題を知っていた。
しかし、彼らが言うには、もし米軍基地を台湾に受け入れるかの国民投票があったら、台湾人の9割が、賛成するだろうと話した。
台北ではゲストハウスに泊まった。
朝食の時に隣に座った人に話しかけたら、元米海軍で横須賀に居たとのこと。
未だ20代位だった。辺野古の話しになった。
こんな出会いもまた、旅の醍醐味かな。
台湾は沖縄から東京より近いのに、いろいろと知らないことだらけだ。
これから少しずつ交流を深めていければと思った。終