福島県三春町の武藤類子さんの言葉を読んでもらいたい。
いま、現実・絶望・悲しみ・苦しみを見せないようにしたうえで、夢・希望・未来・絆といった言葉の世界が築かれていると思います。
放射能物質は今もそこにあるのに。
傷ついているのに「傷つかなくていいと」と言われ、心配しているのに「心配ない」と言われ、私達の「再生」も、私達ではない人達がプログラムしている。大きなお世話というか、本当にやめて欲しいですね。
私達は「再生」という言葉を奪い返したい。いや、それだけではなく「絶望」ということも奪い返したいのです。いま、私達は「絶望」することも奪われてしまっている。もっと、きちんと「絶望」したいし、それを経ることなしに、おそらく私達の「再生」は展望できないと思います。
いま私達を取り巻く絶望も、苦しみも悲しみも、そして再生も、私達自身で選び取りたいのです。
福島第一原発の事故による放射能拡散は無差別に平等にありとあらゆる人達の生活を壊した。
原発で働く人、役場で働く人、畑で働く人、学校に通う人、家を守る人…等々。
自然農だろうが、パーマカルチャーだろうが、伝統的な生き方だろうが、将又会社員だろうが、放射能は、誰もそして何処も、区別せずに降り注ぎ、生活を奪っていった。
どんな人も、再び、原発の事故を望む人はいない。
政治運動(政治に関わる事)はとても大事な生活の一部だ。
自給自足、人間の生きる・生かされているという事を学ぶ基本だとおもう。
マハトマ・ガンジーは、イギリスからのインド独立運動で指導者をしているときに、
とある記者からこの様に質問を受けた。
記者―「ガンジーさん、貴方の運動は政治運動の様でもあり、社会運動の様でもあり、文化運動の様でもあり、農地運動、医療、衛生、教育、経済、運動の様でもありますけど、一体全体、なんと形容したものでしょうか?」
ガンジー-「私のこの運動は純粋な宗教運動なのです。真理を求め、非暴力の生き方を常に模索しているのです。」
(半分フィクション)
宗教運動=真理を求める生活。
ガンジーは“真理”と“非暴力”は一枚のコインの片面ずつであると例えた。
非暴力を究めることこそ、真理を見つける事なのだと説明した。