沖縄からみえる世界   地球・生命・宗教・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

okinawa - hiroshima peace walk. by 小橋川 共行


―Okinawa6.23沖縄戦慰霊の日―Hiroshima8.6原爆の日―に沖縄から参加して
                                                                                                                   

                                                                                                                     小橋川 共行                                                                                                

沖縄県うるま市石川在住)

 

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沖縄摩文仁奄美大島、鹿児島へ
 

6月23日の「沖縄全戦没者追悼式」、慰霊祭に参加したその翌日、フェリーで奄美大島に向かっていました。

沖縄戦・・・私たち沖縄の人々にとっては言葉で言い表すことができないほど複雑な思いがあります。アメリカ軍の軍艦による絨毯爆撃、陸からの砲撃、飛行機による爆撃などで多くの人々が犠牲になりました。家族とはぐれてどこで死んだかわからない人、火炎放射器を浴び焼き殺された人、子どもも赤ちゃんも男の子も女の子もお母さんもおじいさんもおばあさんも数え切れないほど多くの住民が戦争の犠牲になり殺されました。

6月23日には毎年慰霊祭が行われます。その日は平和祈念公園のある摩文仁をはじめ沖縄県の離島や各地にある慰霊碑でも持たれ、沖縄全体が悲しみに包まれます。そして、自分たちの子や孫、沖縄が二度と再びあの悲惨な戦争に巻き込まれないように祈ります。

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 私たち辺野古の闘いの原点は、この言葉に尽くせない悲惨な沖縄戦の体験にあります。ですからゲート前には、私(75歳)のような年寄りが多いのです。なかには、戦火をかろうじて生き延びた人、学徒兵として駆り出された鉄血勤皇隊の経験者、看護婦として動員された女学生たち、家族を日本兵に殺された方なども辺野古ゲート前の座り込みに参加します。それは、再びあの悲惨な沖縄戦の体験を自分たちの子や孫、いま生きている若者たちに経験させたくないという想いなのです。
 

 奄美に着いたのは夜8時30分、雨もようです。奄美はほとんどの人が初めてでしたが、地元の方が車3台で迎えてくださりました。人の温かさを感じつつその日の宿舎、大熊カトリック教会に着きました。びっくりしたことに40人ぐらいの方々が待っていて歓迎会を開いてくれました。小アジのから揚げ、大根、コンブ、タケノコ、豚肉の煮付け、キュウリの和え物、カツオの刺身・・・数え切れないほどのごちそうです。地元の方の歌とお話で夜がふけていきます。なかには沖縄に住んでいたという人もいて、奄美と沖縄は兄弟島というのを実感できた素晴らしい交流会でした。感謝。

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 翌25日から27日までは、辺野古へ投入予定の土砂採石場、建設中の自衛隊基地を見たり、奄美の市議会を回りました。奄美は山が多く、深い森で覆われています。奄美のクロウサギに代表されるように自然が豊かに生きている島です。その山を崩して自然を壊して何百万トンの大量の土砂を沖縄に運ぶ予定の採取現場、広大な自衛隊基地建設中の現場を見て声が出てきません。ことばが出てきません。気をとりなおして役場に向かいました。面白いことに奄美にも瀬戸内という町があります。
25日はその瀬戸内町役場で要望書を提出しました。奄美の瀬戸内町から沖縄へ土砂持ち出しをしないように意見書を採択してくださいとの町議会への要望です。副町長が対応してくださいました。初めての要望書、うまくいくように祈らずにはおれません。

 

翌26日と27日は龍郷町奄美市に、対応してくれた町長さんや部長さん達に平和行進代表の鴨下上人が読み上げて要望書を提出しました。誠意の感じられる対応で、

また、地元新聞の取材もあり励まされた思いでした。その夜フェリーで鹿児島へ。
 

 6月28日、今度は鹿児島県への要望です。県庁舎4階で鴨下上人が要望書を読み上げ、総務部長さんに手渡しました。市内を行進したあと、市議会議員の小川みさ子さんご紹介の方のお宅へ向かいました。今夜はここで宿泊させてもらいます。
 

 29日は日置市にある太田さん宅にお世話になりました。うれしいことに太田さんの知人、友人の方々が20名ほど集まって歓迎してくれました。「ちまき」などのご馳走に感激。地元の伝統的竹笛の演奏、友人達の歌声、若者たちの見事なゴスペルの合唱、一緒に歌い、語り合い素敵な交流会となりました。
 

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 7月6日、雨の中を歩いて出水市役所へ要望書を提出に。強い日射しの中より雨がいいかなと思いつつの行進です。2㎞のつもりが5㎞ぐらいありましたが地元の女性2人が参加してくれ嬉しい行進となりました。要望書を提出したその足で、水俣に向かいました。

水俣へ。水俣、前々から是非一度は訪れたいと思っていました。午後3時半に「遠見の家」に着くと私たちは着替えてすぐ資料館に向かいました。遠見の家とは水俣病の患者さん達サポートする人たちが運営している建物です。資料館、官が創ったものではなく「相思社」という市民団体が立ち上げ運営しているのです。そこには、地図や写真チッソ会社で実際に使われた道具や病気の原因を探る猫の実験等々が展示されていました。よくぞこれだけ膨大な資料を集めることができたものだとその情熱と努力に頭が下がる思いです。やはり現地に来ないと解らないことがいっぱいです。その全体像は資料館の資料を見ただけでは到底解らないと思います。ただ言えることは、国の政策とそれを受けた会社の生産活動に巻き込まれた人びとがいた、いや現在もいるということ。個人が国と会社に翻弄され、苦しみながら命を失い、今現在も苦しんでいる人びとがいる。感想を持つこと自体が許されない現実があると思いました。
 

 石木ダム建設予定地
 

 7月13日、私たちは石木ダム建設予定地に行きました。石木は山間にある静かな集落です。田んぼにはオタマジャクシが群れて夏にはホタルが飛び交う、それこそ故郷(ふるさと)とよぶにふさわしい美しい村でした。その建設に20年来反対運動を続けている方々のテントがあります。ブルーシートで日陰をつくっている様子は、まるで我々辺野古の闘いとそっくりです。粘り強く屈することなく逞しい。ここにも仲間がいるのです。私たちが訪れる数日前に、建設計画の事業認定取り消し訴訟についての長崎地裁の判決がおりていました。やはりそれは、行政の側に立った判決です。住民の側に立っているとは到底言えません。佐世保市は理屈で国や裁判所を説得するのではなくて、反対している住民に顔を向け、住民を納得させるのが行政の責務ではないかという意見があります。まったくその通りではないでしょうか。故郷を水底に沈めないという強い決意を持っている人たちと一緒に闘わないで別れるのはある種のつらさがありました。

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平和行進
8月6日のヒロシマ、「原爆の日」にぜひとも参加したかったのですが、私はやむを得ない事情で7月15日に沖縄に戻りました。途中でリタイアしましたが私にとっては得がたい体験の連続で素晴らしい行進になりました。一日に10㎞から20㎞歩く。雨の中や真夏の炎天下の行進、厳しいものがありました。しかし、私たちの宿泊を引き受け食事などの世話を引き受けてくださった方々、行進している私たちを呼びとめ飲み物などを差し入れしてくださった方々、ご寄進をくださった方々。遠くからでも手を振ってくれた子どもたちの無邪気な笑顔は忘れられません。善意ある方達に支えられて、出会い、ふれあい、語り学びあう、私たちは素敵な旅を味わいました。とても心残りでしたが、後で鴨下上人から、広島に無事に着き、行進は成功だったと聞きとても喜びました。感謝あるのみです。

合掌。

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