沖縄からみえる世界   地球・生命・宗教・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

名護市長選から1週間後に思う

名護市長選を終えて一週間が経った。

名護市民の日々の営みは何も変わらず続いている用に見えるが、やはり何かが去って行った後の様な、そう、例えば大きな台風が去っていった様な... そういう選挙だった。

大きなうねりと混乱を持ってきた名護市長選は、目に見えない深い何かを残して去って行った。多くの人達にはそれは、深い傷痕となった。

選挙後の一週間、毎日私は地元紙の沖縄タイムス琉球新報の選挙関連記事を読んだ。

辺野古の基地建設を何とか止めたいと思う私達は、日本政府の力の入れようをある程度は予想していたが、それがはっきりとした形で活字となり、また人伝いに聞いたりして、あらためて驚いた、というよりも、それを通り越して、感心してしまった。
(感心したといっても、この選挙制度の欠陥をどうにかしたいという想いが変わったわけではない。)

そう、ご存じの通り、日本政府は120%の本領を発揮して名護の市長選挙を闘った。

そして、新聞で報道されているように、稲嶺市長を応援する勢力は、準備でも気持ちの面でも、全ての面で出遅れ、結局巻き返すことが出来ず、残念な結果となった。

ただ勝てるだろうという自信だけはそれなりに持っていたが、それが逆に負けた敗因となってしまった。

前回の市長選では自主投票であった公明党が今回は相手候補の推薦となり 2000 票と云われる票田を失い、更に維新の会の 1000 票余も流れた。結果 3458 票という票差に大きく響いた。

(ということは、来たる沖縄県知事選で公明、維新を自民党に抱えられなければ、勝算は大きいが...)

今回、驚きと疑問を持ったのが、現職の官房長官が、名護市の会社の役員の携帯に直接電話をかけ、渡具知氏への支援を呼びかけ、又、企業等に期日前投票の取り組みを働きかけていたという事だ。
又、全国比例の国会議員等は建設、医師、郵便、遺族会など各職、地域・団体の代表として当選している事から県内の各地域や団体、企業を回り、街頭演説などで表に出ず、徹底して裏で“ステルス作戦”に徹した。

地元経済界も表向きの選挙事務所とは別に“裏選対”ともいえる事務所を構えた。
名護市を除く北部 11 市町村の保守系議員らが当番制で運営する「市外対策事務所」には地元の有力企業の東開発の会長も連日出入りし、会長自身渡具知候補ののぼりを持ち、経済界は一枚岩体制を築いていた、と新聞で報じられている。

そして、50歳から下の世代では稲嶺候補より渡具知候補への投票率が高かったという出口調査が出た。
「名護大通りの無料 Wi-Fi の実現」「複合型エンターテイメントシティー(映画館)を目指す」という、若い世代には魅力的な公約を訴え、LINE、InstagramTwitterFacebook という SNS を上手に使い分けた。

以下の URL から渡具知氏の公約を見ることが出来る。http://take-toyo.net/rinen


今回の渡具知氏の訴えは“暮らしの向上と経済発展”だった。
辺野古のへの字も言ってはいけないというのが至上命令だった。
そして、名護市は、稲嶺市政によって閉塞感が漂っていると訴え続けた。

この様な訴えが功を奏したようだ。

地方都市に有る“閉塞感”、“取り残された感”というのは名護だけではなく、全国の至る所に有る、現代の社会問題であり、それはとても根深い。各地域社会が自立を失い、大資本が毛細血管のように各地域に入り込み、地方の自給自足の経済を汚染していった事など、様々な要因からなるものであり、一市長の責任うんぬんではないはずだった。

逆に稲嶺(前)市長は数字の上では市の予算を前市政よりも百億円近く増やし、失業率を約7%減らし、子供の医療費助成、保育料の軽減、学校給食費軽減など、渡具知氏が訴えるような暮らしの向上と経済発展ではそれなりの実績を出しているように思う。

この閉塞感から脱するというメッセージが広く名護市民の心を捕らえたが、この閉塞感は辺野古をはじめとして、基地の問題が殆ど何一つ解決されないという意味で、県全体に基地問題の閉塞感が漂っている。

閉塞感は日本政府の沖縄への差別や強硬姿勢がつくりだしているものなのに、その閉塞感を基地問題が解決しそうに見えない稲嶺前市長の批判票となってしまったように思う。
なんて皮肉な事かとおもう。
日本政府によって虐げられている人達が、日本政府の代理である人を当選させてしまうなんて。

そう、心理戦といった面からも日本政府に軍配が上がった。
稲嶺陣営がたたかった相手は、渡具知候補というよりも、日本政府そのものだった。

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もう一つ気になる記事があった。

選挙戦両陣営の応援に関わった学生や若者達の記事と、辺野古の渡具知陣営を応援した青年達の記事だ。

ここでこの2カ所の若者達で共通するのは、心の奥底では基地建設に反対だということだ。

前者は名護市内の名桜大学の四年生で辺野古の座り込みにも行ったことがあるという。
彼はそこで、座り込みに来た人の路上駐車を地元住民が注意したところ、逆に強圧的に反論している場面に出会った。

又、“ゆんたくるー”という若者グループが基地問題を話し合うために、カレーパーティーを企画して辺野古に集まっていた時、そこで年配の人に、貴方たちは基地に賛成なのか、反対なのか、どっちなんだ!?と迫られたというような事もあったようだ。
この様に座り込みに来ている一部の大人達のふるまいが、若者達が寄りつかない原因を作ってしまっていることは、座り込み参加者がしっかりと認識するべき問題だと思う。


座り込みへの政府の弾圧が強まるのに比例し、余裕を失い、言葉使いが暴力的になり、初めて来る人達や、若い人達は、馴染めずにまた来ようと思わなくなってしまう。

マスクとサングラスで顔を隠すのには、それぞれの事情があってのことだが、客観的に見ると怖い集団に見えてしまっている。

座り込みに参加していない、他者からどう見られているかは、“超”重要だ。車で通り過ぎる多くの県民。
ふらっと、やって来る県内外の人達、そして、ネットや新聞でどう写っているか。これらの印象で人は座り込みに、参加するか、しないかの判断基準とするからだ。
(ネットでは“基地反対の過激派”、“プロ市民”、“暴力・違法集団”という情報が溢れかえっている。 )

パーマカルチャー(持続可能な社会)を勉強しているような人ですら、これらの情報を鵜呑みにしていて、座り込みの現場に恐怖心を抱いている。
又、辺野古に行くトラックが座り込みで渋滞する時間帯には58号線を通るようにしていると言っていた。

そして、後者の辺野古の青年達は渡具知氏の当選を泣いて喜んでいた。
彼らの中の36歳の漁師は海の話をする時は笑顔を見せるという、そして「地元の海が埋め立てられるのは嫌だ」と言う。

でも「基地は絶対に造られる。容認して条件を付けておかないと大変な事になる」という先輩達の訴えを重く受け止めているという。
昨年9月久部三区の青年会のメンバーは政府と防衛局職員等と伊江島に行き、防衛予算で養殖や浮き桟橋などの基盤整備などを視察してきたようだ。
辺野古の未来を考えての事だろう。

この記事で感じたことは、久部三区の住民達は今まで防衛局や政府、米兵たちと長年交流してきたという事だ。
長い間彼らと交流していれば彼らの考え方、生き方に共感を持つことは、ある意味自然な事だと思う。

もう一度、久部三区の住民たちと座り込みの住民や基地に反対する人達が声を荒げることなく話すことが出来ればと思う。

分断されてしまった人達が、たとえ、意見が違っていても向き合えるようになって欲しいと願う。

また、辺野古東海岸にあり、名護の人口の殆どは西海岸に住む。
この、東と西でも、基地に対する感覚は違う。
東海岸にいれば、海を見ればキャンプ・シュワブが見えるが西海岸は山の向こう側だ。
西海岸人口 57,000 人は東 4,500 人と約一割。
西側の人にとって、普段、用事がない東海岸にどうしたら、想いを寄せてもらえるだろう。


今後、新市長がミジャ川の切り替えや作業場設置等の承認を許可すれば、政府は片足が自由になるだろう。
後は、知事を何とかするだけだ、というところだろう。

しかし、今回の市長選で一時は言葉を失ったものの、何故か敗北感はない。

それは自分が傍観者だからだろうかとも思う。ここで生まれ育ち、働き、反対してきた者ではないからだろうか、とも思う。
多くの県民が今回の結果にうちのめされている。もちろん私もそのうちの一人だ。

しかし、なぜか気分が滅入っていないのは、それは、もしかしたら一つの目標が見つかったからかもしれない。


悪意ある分断作戦によって、離ればなれになってしまった名護の心、沖縄の心にフォーカスしていきたいという想いが生まれた。

先日、同年代の韓国の知人が、彼らが撮った映画の上映ツアーで沖縄を訪れた。
私も上映会の呼びかけ人の一人だったので、仲間を連れて、上映場所の一つであった、名護市二見のワカゲノイタリ村に行った。
映画の後に、1時間以上みんなで話し合った。

名護の若者達は、やはり、辺野古のゲート前には足が向かないという。
その理由は、やはり、現場の雰囲気のようだ。
警察やトラックの運転手、防衛局員やアルソックの人達に対する罵声。
相手を批判する事で生まれる、ネガティブな雰囲気、自分たちの正義を一方的に伝えるだけでは、相手は心を閉じるだけだ。抗議の言葉ももちろん必要だけれども、あまりにも抗議一辺倒に陥ってしまっているように思う。

歌や三線に踊りと多種多様な人達の話や報告があれば、また場はいきいきとしてくるのではないだろうか。

こんな話しも聞いた。
東京から辺野古埋め立ての工事の為に来ている現場監督がワケゲノイタリ村に来たという。仲良くなり、基地問題の事情を知ると、彼は「沖縄の人を苦しめるような工事なら、自分は止める」と言って、仕事を辞めるようだ。
小さな一歩だけど、人の心を動かすには、ただ自分達の正しさを訴えるだけではなく、相手との信頼関係を結ぶ事が、結局は良い結果を双方にもたらしてくれる。

韓国の青年監督の話もうなずけた。
韓国国内では若者達が社会問題に対してとても感心があり、現状に大きな不満を抱いており、大人世代に対する
怒りを持っていると聞いた。それを皮肉って“Hell(ヘル)・朝鮮と言っているらしい。

それを聞いた、日本の若者(大学中退し沖縄に移住)が“保育園落ちた日本死ね“みたいだと言う、でも日本では若者の大きなうねりは生まれなかったし、それが大人世代に対しての怒りだという事に行かなかったと語った。


又、韓国の青年が若者は今、経済格差に苦しみ、基地問題に向かう余裕がないと語った。
若者にとっては“貧困”が大きな問題になっているので、大人世代は先ず、彼らの悩みを聞き、彼らの問題にも向き合う必要があると語った。そうでなければ、若者は基地問題などには心を向ける余裕がないと。

また、大人世代に“待つ”ことも必要と話す。
やはり、一方的にこちらの想いを伝えてみても、若者は引いてしまうだろう。

辺野古ゲート前は新市長の誕生によって今まで以上に、基地建設を止める上で重要な場所となる。


多くの人が集まれる場になるにはどうすれば良いか?

それはおのずと、今私達が理解している非暴力という意味を掘り下げ、進化させる必要があるのではないか。
ガンジー翁やキング牧師のように宗教が持つ精神的な深さを持つ事は、非暴力を進化させる。

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私自身、辺野古ゲート前に通う理由は、
アフガニスタンにいる私の友人達の命の危険をなくしたい
・日本人として歴史的に沖縄を“捨て石“にしてきた責任
・母なる自然を守りたいという想い
辺野古に行くと、多種多様な人がいて面白い

私にとって辺野古新基地は、あきらめる、あきらめない、の問題ではない。
結果を求めて、辺野古に通っているわけではない。

ただ、大切なものを守りたいから行くだけだ。
その“大切なもの”にはもちろん、米兵も警察官も防衛局もアルソックも軍警もそして座り込みの仲間達も含まれ
る。
非暴力とはそういうものだと、私は思う。

長崎県、川棚町、川原(こうばる)に行ってきて

諸用があり九州を訪れている。

つい数ヶ月前、ネットで石木ダムの問題の事を知った。
動画や川原(こうばる)の画家の魚や鳥の絵を見て、興味が湧いた。

沖縄にはない九州の山々、田園風景は、綺麗だと感じる。

 

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今回は”石木川まもり隊”

ishikigawa.jp

の方に事前に連絡を取り、案内をお願いした。

ここには収まりきらない多くの歴史的経緯を聴き、50年という半世紀に及ぶ人々の歴史に、想像力が追いつかなかった。

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50年前、当時の佐世保市は工業化等によって水の供給を増やす必要があるということで、石木川を堰き止め、川原区に立ち退いてもらい、ダムを建設する計画を立てた。
しかし、住民は先祖伝来の土地を離れることを望まず、結局、機動隊なども出して強制測量までしたが、今までダムは完成していない。
その間、市の工業化は成されず、そこに日本最大規模のハウステンボスが建設された。さらに、近年、市の人口は減少していて、明らかに水の供給は足りているとのデータが公表されている。

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それなのに、何故、今もダム建設に固執するのだろう?

そこに、ダム建設の利権が関わっていることを疑わざるを得ない。

この50年の間に、50数世帯が立ち退き、13世帯が残っている集落にはまだ人々の営みが見えた。

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何件かの農地が強制収容されたが、そんなことを意に介さず、まだ農民が、淡々と作物を作っている。


突然、川原区の入り口辺りだろうか、山が大きく口を広げるように削り取られていた。
ダムで沈む川原を迂回する為の道路建設ということだ。

座り込みをしている方々の簡易テントに行き、それから座り込みをしている、工事現場にも行ってみた。中に入っていくと、県の職員方が出てこられて、入らないで下さいと制止されてしまった。理由を伺うと、ここは県が買収した土地で、工事現場で危ないということだった。工事現場には数十名の県の職員が詰めているようだ。

県の土木課長だっただろうか、私達の前に数名で立ちはだかり、現場から出ていって下さいと言われた。すぐそこに、反対している住民達が一台の重機を囲むように座っている。私はあの方々に少しお話しを伺いたいと、課長と思われる方にお願いしたが、承諾してもらえず、しばらくそこから、祈りを捧げた。

 

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辺野古と同じだ。座り込みを始めた私達沖縄県民は連日の座り込みに辟易している。
国や行政は座り込みを違法だというが、もし、自分の目の前で“大切なもの”が壊されるとしたら、体を張ってでも、止めるのではないか?

法的な手順を踏めば問題ないと考えるのは人間の思い上がりではないか。

国の法律などつい最近人間が作ったもので、不備だって多い。

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勿論、国民として法律を遵守する事は大切だが、石木ダムの座り込みの人達の疲弊の様を見て、私は涙が出そうだった。

石木ダムの工事の強行は憲法に違反している。
法律を悪用し、人を苦しめ、自然をだめにしてはいけない。
暫くは私の心の中に石木ダム座り込みの人達の姿が消えることはないだろう。
現状は大変苦しくても、彼らの顔に笑顔が消えることのないよう、沖縄から祈る。

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100%の勝利なんて絶対存在しない。

時代はいつも動き続けていて、人間はいつも、その時代、時代にずっと問われ続けながら、何かしらの選択をしてゆかなければならない。

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PTSD okinawa

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辺野古、camp schwab ゲート前

 

 

PTSD(Post Traumatic Stress Disorder)

心的外傷後ストレス障害 =<命の安全が脅かされるような出来事(戦争、天災、事故、犯罪、虐待など)によって強い精神的衝撃を受けることが原因で、著しい苦痛や、生活機能の障害をもたらしているストレス障害である>

 

沖縄人で米軍による被占領時代を経験した世代。

1972年(昭和47年)に日本に施政権が戻ったので、年齢で云うと、46歳が1972年生まれだろう。

しかし、しっかりとした記憶があるのが大体、6歳くらい、だとすると、52歳以上であれば日本復帰を覚えているはず。

辺野古に毎日通ってくるのはほとんどがこの上の世代だ。

やはり、記憶や経験というものは、情報よりもその人個人を動かすのだろう。

 

辺野古だけではなく、沖縄で会う多くの人達は家族、親戚、知人を沖縄戦で失ったと言う。

或は、45年から72年の間に米軍からの被害を記憶している。

この事を考えるとき、沖縄の人達が、怒りや憎しみを持っていることは、必然的であるといえる。もっと言ってしまえば、この感情は健全でさえあると思う。

 

私は、今まで20カ国くらいの国に行く機会があり、その国々の中で幾つかの国では、国家権力に対する民衆のデモや様々な行動を見、また参加してきた。

嫌なものをイヤというのは当たり前のことであって、嫌なことをされてイヤといえないのは不健全であると思う。

 

私はこの国の、殊に若い世代(40代以下か?)が目に見える行動に出てこないというのには、何か違和感を感じる。

例えば、沖縄でも、福島でも、或は、非正規労働者や低賃金労働者などの若者達は鬱憤が溜まっていないはずがない。

それなのに、行動に出ない、言動にも出てこない、この不自然さは何なんだろう。

 

話しは沖縄、辺野古のことに戻るが、私は連日辺野古の座り込みに参加し、そこで会う60代後半から70代、そして80代の人達と時間を共にすることで、自分と周りの人達とのギャップを感じる事がある。

その溝とは怒りの感情だ。これは若者全般に言えることかもしれないが、辺野古で警察の暴力的な対応にあっても、私には強い怒りがわいてこない、怒って当然だとも思う。しかし、私の中にはなかなか、怒りという感情がわいてこない。

自分は感情面で欠陥があるのかとも思ったことさえある。

 

話しをPTSDに戻す。

先日、何年もほとんど毎朝顔を合わせているおじいが、自分の話しをした。

彼は、父親を戦争で亡くした、あと家族も数名死んだと話してくれた。

私は「これだっ」と思った。

私にないもの、そして、おじい、おばあに有るもの、それは「経験」だ。

私はこれはPTSD のひとつであると思った。

そして、怒る彼らを敬遠する心が、私を含む、若者達の中にあることに再び哀しみを覚えた。

想像する力は一朝一夕で培えるものではない。

相手の胸の内を想像し、理解に至るが、想像することは思いのほか難しい。

 

いつか、離ればなれになった心が繋がって欲しいと思った。

 

 

2018年辺野古座り込み開始

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500人程は集まっただろうか。

今年も辺野古の座り込みが始まった。

正月の6日ということもあってか、県内の学生達や子供達、それに普段来ないような若者達が集まった。

3年と約6ヶ月が経った。自分もそうだけど、よくここまで多くの人達が集まるものだと感心してしまう。

人間は努力してもなかなか結果が得られなければ、諦めてしまう。それは、ごく普通のことだ。

それでも沖縄の人達はあきらめないで、座り込む。

気になることは、ここに若者達がほとんど居ないこと。

基地は無いほうがいいという若者は多い、それでも座り込む若者は居ない。

時々、来る。最初の頃は多く居た。

しかし、今は居なくなってしまった、若い人達。

圧倒的な力に対して、なにをしても無駄なのか。

沖縄の座り込みは、排除する側、される側の溝が深い。

私がアメリカやインドで経験した、対立する相手に対する、おもいやりや祈りというものを持つ事によって、精神的に一歩高みへと行く、非暴力の方法は、やはり強く、そしてあたたかい。

そこにはいつもいわゆる、宗教者という人達がいた。ヒンドゥー教、仏教、キリスト教イスラム教、先住民の教えと祈り。

 

 

5000日経過 辺野古テント村

2004年の座り込み開始から5000日が経った。

13年という月日は短くはない。

この間、沖縄戦を経験したものたちはどんどん亡くなっていった。

沖縄戦は72年前。当時の記憶がはっきりしている人達は今、80歳以上だ。

沖縄県民が日本本土の人に対して戦争と平和についての意識が高いのは、泥沼の地上戦と戦後の米軍統治だ。朝鮮戦争に始まり、ベトナム戦争、そして近年の中東の戦争も沖縄の米軍基地は活用されてきた。沖縄県民にとって戦争は本土の人間よりも身近なものだった。

戦争につながる全てのものに反対してきた世代が少しずつ居なくなっていく。

戦争行為がゲームや映画などによってかっこよく描かれれば、人は容易に戦争を肯定するようにもなるだろう。

戦争によって今も苦しむ人がいる事実と、日本社会はその戦争と全く無関係ではないことをよく理解しなければならない。

日本で72年前に終わった戦争は現在も同じ空の下起きている。そして、そこにはもちろん苦しむ人間達がいる。

 

 

 

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宮古島に新たな自衛隊ミサイル基地の建設が始まる。

 

f:id:worldeyes2017:20171212143933j:plain      千代田カントリークラブの自衛隊ミサイル基地建設現場

 

f:id:worldeyes2017:20171212143853j:plain造成工事が行われている

 

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 自衛隊宮古島駐屯地 

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宮古島市城辺(しろべ)保良(ぼら)に在る採石場が弾薬庫候補地とされている。

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海上保安庁の射撃訓練場が建設予定の保良の海岸

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 なぜか日本維新の会国会議員団がミサイル基地建設現場を視察していた。

 

 

2015年だっただろうか、宮古島に来た。

その時は自衛隊のミサイル基地はまだ建設地が確定していなかった。

ゆったりとした時間が流れ、綾道(あやんつ)という島内の聖地や歴史的な要所まわる巡拝コースのようなものを歩いて回り、神の島として名高い大神島にも渡った。そしてまた完成したばかりの伊良部大橋をわたり、伊良部島に渡り宮古島に移住し二十数年が経つという清水さんにいろいろなところを案内していただいた。

 

今回約二年ぶりに来た宮古島は美しい自然を満喫する余裕はなくひたすら自衛隊ミサイル基地や現基地に新設されたレーダーシステムの電磁波汚染の問題そして保良集落の隣に出来る弾薬庫と海上保安庁の射撃訓練場等の問題に忙殺されてしまった。

更に冬ということもあり、曇天の日が多く気持ちも重いものとなった。

 

現在沖縄本島を含み、与那国、宮古、石垣、奄美大島自衛隊ミサイル基地の新設やレーダー基地、そして水陸機動団の配備など軍事強化が進んでいる。

 

宮古島の新たな自衛隊基地関連施設には三つの地元の区がすでに反対の決議をあげている。ただ、市長と市議会は基地建設に反対の立場ではく、むしろ推進しているように見える。

 

日本政府は中国の海洋進出を離島の脅威だと喧伝し、今まで沖縄本島を除く南西諸島の防衛が手薄だったとして、この防衛の空白地域を埋める事が抑止力になると公言している。

 

しかし、はたして中国は沖縄を侵略、占領しようと考えているのか?

そして、それならば現在沖縄に駐留する米軍基地では抑止にならないのか?

 

中国の海洋進出は海底資源の開発にあって、沖縄の占領ではないのではないか?

そもそも、中国が沖縄の離島を軍事占領するという考えはどこから生まれてくるのか?

 

或は尖閣諸島を奪われて、日本が失う利益と、その可能性の為に進める離島の軍事化はどちらの方が不利益になるのか?

(私は海底資源の開発は地球の健康と寿命にとって害があると考えるから反対)

 

対話とはある相手にとっては無意味なのか?

対話しても、こちらの望む結果が得られなければ、対話は無意味なのか?

私はそうは思わない。

対話には忍耐が必要だ。

相手とこちらの主張が全く、合わなくても、相手と面と向かって、お互いの主張をする事は無意味ではない。何度でも、何度でも、決裂しても、継続するしかない。

それが対話だ。

 

そこで、決裂しようが相手を憎まず、殺さないのが、人類の成長の証ではないのか?

生きとし生けるものは、死を恐れ、苦しみを嫌う。

人を憎しみ、嫌う心は、結局自身に安心をもたらすことはない。

 

確かに、一方では世界は冷酷であるという見方も一理あると思う。

しかし、世界が冷酷であっても自分たちが冷酷になり、軍事化を進めることが、大きな視点で見たときに、人類と地球生命にとって有益であるとはいえない。

 

そして、私達の国と同盟諸国は、少しの安全を軍事バランスで守れるかもしれないが、軍事化がもたらす未知の被害は人間にとっても、あらゆる生命にとっても計り知れないほど危険である。

 

自身の国という考え方に囚われ、自分たちの所有するものを失うのを恐れる。

この様な世界のシステムに住んでいれば、安心を得ることは出来ない。

 

いつか、人類は恐怖を克服する事が出来るだろうか?

 

 

 

 

 

 

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はじめまして。
東京出身の私がインドをはじめ海外で20代を過ごし、沖縄に移住して4年と数ヶ月が経ちました。
沖縄と言えば、綺麗な海と亜熱帯のジャングルそして、琉球国以来の固有の文化や食べ物。
この島に訪れる人を魅了し、何処か日本とは違う場所に来たような錯覚を与えてくれる島々。
そして、少しずつ沖縄を知っていくと見えてくる歴史。
明治以前は琉球国そして琉球藩。明治以降は同じ国でありながら本土とは違った歴史を歩んできた。その事がこの島の隅々に刻まれている。
そして、沖縄を語る上で1944年(昭和19年)から始まった沖縄戦を無視することは出来ない。それから、1972年(昭和47年)までの27年間は米軍に統治され、日本に施政権が返還された後も、県本島、約20%の土地が米軍基地として存在している。
基地問題は政治の問題か? 暮らしの問題か? 経済、防衛の問題か?
私は沖縄に住んでみて、米軍基地のインパクトが想像以上に大きいことに、いまもって日々、驚いている。そして、何よりも悲しいし、日本人としての責任を感じる。
このブログではこれから、沖縄について、そして日本について、また世界のことも、考え、頭に浮かんできたことを記録していきたいとおもいます。