沖縄からみえる世界   地球・環境・生命・宗教  ・先住民

人間が誕生し20万年が経つ。12万5千年前より火の利用を始め、10万年前にアフリカを出たと言われている。そして、5千年前にエジプト、黄河をはじめとする初期の文明が起きた。それから約2800年前になるとローマ時代が始まる。 つい250年前に産業革命が起きると、地球・環境・生命・宗教・先住民へ大きな影響を与え始める。西暦2017年の現在より、過去、未来を考える。

2018年沖縄県知事選挙を終えて

保守と革新、右と左という空虚な呼び名の壁を越えていきたい。
平和は理解と共感から創られるとしたら、どのような道が私達の前に続いているだろうか?

 

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沖縄の今後を大きく左右する知事選挙が終わった。
結果は誰も予想していなかった、辺野古の新基地阻止を訴える玉城デニー氏。
ここ最近の沖縄での首長選挙は自・公推薦の候補が連勝してきていただけに、今回、誰もが、オール沖縄は風前の灯火と感じ、デニーさんの当選を危ぶんでいた。

しかし、蓋を開けてみれば、39.6万票獲得し、政府推薦の佐喜真候補を8万票差で圧倒した。
印象に残ったことは、自民・公明の支持者達の2割から4割がデニー氏に入れたことだ。
中央からの巨大な力と財力、政権幹部達の沖縄知事選挙への介入に対して、沖縄が下した審判なのかもしれない。
選挙のたびに基地問題が争点となる、しかし基地問題の終決は全く見えてこない、となると選挙で基地問題は争点としての価値が低くなってくる。

 

日本政府の推す佐喜真候補が敗れ、玉城デニー新知事が誕生せいたことで、これから辺野古の埋め立てはどうなっていくのか???

 

現在は前沖縄県政による埋め立て承認の撤回で工事は中断している。

 

今後、予想されることは政府によるこの承認の執行停止で工事が再開されることだ。

再度裁判になる可能性が大きい。

 

辺野古の座り込みが再開される。

okinawa - hiroshima peace walk. by 小橋川 共行


―Okinawa6.23沖縄戦慰霊の日―Hiroshima8.6原爆の日―に沖縄から参加して
                                                                                                                   

                                                                                                                     小橋川 共行                                                                                                

沖縄県うるま市石川在住)

 

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沖縄摩文仁奄美大島、鹿児島へ
 

6月23日の「沖縄全戦没者追悼式」、慰霊祭に参加したその翌日、フェリーで奄美大島に向かっていました。

沖縄戦・・・私たち沖縄の人々にとっては言葉で言い表すことができないほど複雑な思いがあります。アメリカ軍の軍艦による絨毯爆撃、陸からの砲撃、飛行機による爆撃などで多くの人々が犠牲になりました。家族とはぐれてどこで死んだかわからない人、火炎放射器を浴び焼き殺された人、子どもも赤ちゃんも男の子も女の子もお母さんもおじいさんもおばあさんも数え切れないほど多くの住民が戦争の犠牲になり殺されました。

6月23日には毎年慰霊祭が行われます。その日は平和祈念公園のある摩文仁をはじめ沖縄県の離島や各地にある慰霊碑でも持たれ、沖縄全体が悲しみに包まれます。そして、自分たちの子や孫、沖縄が二度と再びあの悲惨な戦争に巻き込まれないように祈ります。

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 私たち辺野古の闘いの原点は、この言葉に尽くせない悲惨な沖縄戦の体験にあります。ですからゲート前には、私(75歳)のような年寄りが多いのです。なかには、戦火をかろうじて生き延びた人、学徒兵として駆り出された鉄血勤皇隊の経験者、看護婦として動員された女学生たち、家族を日本兵に殺された方なども辺野古ゲート前の座り込みに参加します。それは、再びあの悲惨な沖縄戦の体験を自分たちの子や孫、いま生きている若者たちに経験させたくないという想いなのです。
 

 奄美に着いたのは夜8時30分、雨もようです。奄美はほとんどの人が初めてでしたが、地元の方が車3台で迎えてくださりました。人の温かさを感じつつその日の宿舎、大熊カトリック教会に着きました。びっくりしたことに40人ぐらいの方々が待っていて歓迎会を開いてくれました。小アジのから揚げ、大根、コンブ、タケノコ、豚肉の煮付け、キュウリの和え物、カツオの刺身・・・数え切れないほどのごちそうです。地元の方の歌とお話で夜がふけていきます。なかには沖縄に住んでいたという人もいて、奄美と沖縄は兄弟島というのを実感できた素晴らしい交流会でした。感謝。

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 翌25日から27日までは、辺野古へ投入予定の土砂採石場、建設中の自衛隊基地を見たり、奄美の市議会を回りました。奄美は山が多く、深い森で覆われています。奄美のクロウサギに代表されるように自然が豊かに生きている島です。その山を崩して自然を壊して何百万トンの大量の土砂を沖縄に運ぶ予定の採取現場、広大な自衛隊基地建設中の現場を見て声が出てきません。ことばが出てきません。気をとりなおして役場に向かいました。面白いことに奄美にも瀬戸内という町があります。
25日はその瀬戸内町役場で要望書を提出しました。奄美の瀬戸内町から沖縄へ土砂持ち出しをしないように意見書を採択してくださいとの町議会への要望です。副町長が対応してくださいました。初めての要望書、うまくいくように祈らずにはおれません。

 

翌26日と27日は龍郷町奄美市に、対応してくれた町長さんや部長さん達に平和行進代表の鴨下上人が読み上げて要望書を提出しました。誠意の感じられる対応で、

また、地元新聞の取材もあり励まされた思いでした。その夜フェリーで鹿児島へ。
 

 6月28日、今度は鹿児島県への要望です。県庁舎4階で鴨下上人が要望書を読み上げ、総務部長さんに手渡しました。市内を行進したあと、市議会議員の小川みさ子さんご紹介の方のお宅へ向かいました。今夜はここで宿泊させてもらいます。
 

 29日は日置市にある太田さん宅にお世話になりました。うれしいことに太田さんの知人、友人の方々が20名ほど集まって歓迎してくれました。「ちまき」などのご馳走に感激。地元の伝統的竹笛の演奏、友人達の歌声、若者たちの見事なゴスペルの合唱、一緒に歌い、語り合い素敵な交流会となりました。
 

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 7月6日、雨の中を歩いて出水市役所へ要望書を提出に。強い日射しの中より雨がいいかなと思いつつの行進です。2㎞のつもりが5㎞ぐらいありましたが地元の女性2人が参加してくれ嬉しい行進となりました。要望書を提出したその足で、水俣に向かいました。

水俣へ。水俣、前々から是非一度は訪れたいと思っていました。午後3時半に「遠見の家」に着くと私たちは着替えてすぐ資料館に向かいました。遠見の家とは水俣病の患者さん達サポートする人たちが運営している建物です。資料館、官が創ったものではなく「相思社」という市民団体が立ち上げ運営しているのです。そこには、地図や写真チッソ会社で実際に使われた道具や病気の原因を探る猫の実験等々が展示されていました。よくぞこれだけ膨大な資料を集めることができたものだとその情熱と努力に頭が下がる思いです。やはり現地に来ないと解らないことがいっぱいです。その全体像は資料館の資料を見ただけでは到底解らないと思います。ただ言えることは、国の政策とそれを受けた会社の生産活動に巻き込まれた人びとがいた、いや現在もいるということ。個人が国と会社に翻弄され、苦しみながら命を失い、今現在も苦しんでいる人びとがいる。感想を持つこと自体が許されない現実があると思いました。
 

 石木ダム建設予定地
 

 7月13日、私たちは石木ダム建設予定地に行きました。石木は山間にある静かな集落です。田んぼにはオタマジャクシが群れて夏にはホタルが飛び交う、それこそ故郷(ふるさと)とよぶにふさわしい美しい村でした。その建設に20年来反対運動を続けている方々のテントがあります。ブルーシートで日陰をつくっている様子は、まるで我々辺野古の闘いとそっくりです。粘り強く屈することなく逞しい。ここにも仲間がいるのです。私たちが訪れる数日前に、建設計画の事業認定取り消し訴訟についての長崎地裁の判決がおりていました。やはりそれは、行政の側に立った判決です。住民の側に立っているとは到底言えません。佐世保市は理屈で国や裁判所を説得するのではなくて、反対している住民に顔を向け、住民を納得させるのが行政の責務ではないかという意見があります。まったくその通りではないでしょうか。故郷を水底に沈めないという強い決意を持っている人たちと一緒に闘わないで別れるのはある種のつらさがありました。

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平和行進
8月6日のヒロシマ、「原爆の日」にぜひとも参加したかったのですが、私はやむを得ない事情で7月15日に沖縄に戻りました。途中でリタイアしましたが私にとっては得がたい体験の連続で素晴らしい行進になりました。一日に10㎞から20㎞歩く。雨の中や真夏の炎天下の行進、厳しいものがありました。しかし、私たちの宿泊を引き受け食事などの世話を引き受けてくださった方々、行進している私たちを呼びとめ飲み物などを差し入れしてくださった方々、ご寄進をくださった方々。遠くからでも手を振ってくれた子どもたちの無邪気な笑顔は忘れられません。善意ある方達に支えられて、出会い、ふれあい、語り学びあう、私たちは素敵な旅を味わいました。とても心残りでしたが、後で鴨下上人から、広島に無事に着き、行進は成功だったと聞きとても喜びました。感謝あるのみです。

合掌。

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沖縄を伝えることの難しさ

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沖縄の事を沖縄の外で伝えることは案外難しい。

 

今回6月23日に沖縄を出発し、8月6日広島に向けて歩いている。

一ヶ月半かけて、沖縄を歩き、奄美大島、九州、山口、広島を歩いている。

一日中歩くと、道ばたで人と出会い、各市町村の役所、県庁、そして、各地で自然や平和を守るためにたたかう人達と出会う。

 

長く続き、終わることのない沖縄の反戦平和のたたかい。

もし、私が沖縄に住んでいなかったなら、関心は持っていても、特段、沖縄の問題解決に自分の命(時間)を使うことはしなかっただろうと思う。

 

なぜ、自分が、沖縄の基地問題に関心を持ったかといえば、一言でいえば、「沖縄に行ったからだ」

 

例えば、終わることのない沖縄のたたかいを本土に住む人が聞かされても、一体自分に何が出来るんだろうかと、まず無力感を覚えるだろう。

 

やはり、体験し、実感し、自分事にしてもらわない限り、本土の人間が、沖縄の問題を自分の問題として、行動することはなかなか無いことだと思う。

 

 

 

 

peace walk 歩かないと見えない世界

6月15日から8月6日まで平和行進は大体10名くらいのメンバーで歩く。

沖縄県の北部から6月23日の慰霊の日、そして奄美大島ー鹿児島県内ー熊本ー長崎ー佐賀ー福岡ー山口ー広島の8月6日へと歩く。

 

毎日生活を共にしていると、連帯感というか家族みたいになってくる。

出身地は様々、タイ人も居れば、これからアメリカ人とイギリス人も来る。

 

育ってきた環境が違う、特に国が違えば、言葉や習慣や価値観も違ってくる。

そんな、多種多様な人達が、へいわという、抽象的な言葉の元に、集まり、歩き、祈り、そして役所やお世話になる人達と出会い、自分たちの想いを伝え、聞いてもらう。

また、相手の話にも耳を傾ける。

 

原始的である。家族的である。小さいが、血が繋がっていない面からみれば、共同体的である。

 

朝起きて、半時間程の祈り(瞑想、唱題)の時間を持ち、朝食、荷物をまとめて歩き出す。お昼頃になれば、朝皆で作ったおにぎりを食べて、午後も歩く。

そして、宿に着き支援者達が食事を作って待っていてくれる。

 

 

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歩くことは出会うこと。
普段決して会うことのない人が住む町の中に入っていく。
学校へ通学する子たち、通勤する大人たち、日中家に居る人たち。
出会いは人間とだけではない。
犬や猫、いろんな動物、そして、花や樹や草、蝶やとんぼに魚たち。
そして、天気。晴れ、雨、風。

 

歩くことは祈ること。

あるくあるくあるく…..と次第に頭はスッキリし冴えてくる。

いのるいのるいのる………と次第に自分と世界が繋がっていることを体感する。

 

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 10月22日から10日間。沖縄平和行進が行われます。

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CIAと沖縄の若者(米軍と住民の交流)

分かってはいたが、衝撃的な記事が沖縄タイムスの新聞に載った。

BEGIN、モンパチ、マブヤーも CIAが沖縄の音楽などを分析 世論研究の解説書 | 沖縄タイムス+プラス ニュース | 沖縄タイムス+プラス

沖縄では基地内のフェスやイベントが定期的にあり、結構県民に人気がある。

若い世代はアメリカ=カッコイイ位の感じだろう。

また、私くらいの年齢(34)になれば、基地内はどうなっているんだろうという興味心も手伝って行ってみたくなる。以上の理由で多くの県民が行く。

また基地内には米軍関係者家族用の小中高の学校があり、大学も4つもある。

そして沖縄県民は留学可能だ。

また学生たちは基地内の英語教室へも行く。

その他、各地域で様々な文化交流が行われている。

こう見るとかなり多くの県民は米軍と時間を共にしているようだ。

 

ここで問題なのは、米軍と住民の交流はCIAやアメリカ国防省によって推奨され、米軍の継続的な駐留の道具、作戦とされていることだ。

県民と交流する米軍人・軍属は多い。

米軍も私服になり、家に帰れば、私達と同じような生活がある。

そう、両者は沖縄で仲良くやれるし、人間関係もうまくいくだろう。

しかし、県民が仲良くするのは、沖縄に居る米軍だ。中東などの戦場に居る米軍人ではないのだ。

 

米軍の存在の意義はなんだろうか?

米軍は何のために沖縄や日本,韓国、世界100カ国以上に基地を持っているんだろうか?

 

かつて日本軍はアメリカ軍に降伏し南西諸島等を取られた。

東西冷戦の脅威に備え、アメリカは沖縄や日本の米軍基地を戦後もハーグ陸戦法規に違反するような形で維持されてきた。

そして、この基地から、朝鮮戦争ベトナム戦争に行った。

そして、日本は軍事物資をアメリカに売る事で戦後の経済的繁栄を成し遂げた。

 さらに最近の戦争ではシリア、イラク、アフガン等の戦争に沖縄の米兵は出撃している。

 自分の島にある基地から世界各地へ戦争に行く。

それなのに、何故人々は反対しないんだろう、止めようとしないんだろう、そして、何故怒らないのだろうか?

 

日本人、沖縄人は怒ることを忘れてしまったのだろうか?

怒っているのはほとんど60代以上の大人たちだ。

何故、若い世代は怒るということをしないんだろうか???

 

とは言うものの、私もその怒らない世代の人間である。

怒らないことは良いことであると今まで思ってきたが、怒らないということは不自然な事であり、健全ではないように最近では思う。

 

例えば、仏陀イエス・キリストなど聖者達は喜怒哀楽を超越した境地に居るものかもしれないが、彼らだってその境地に至るまでは、喜び、怒り、哀しみ、楽しみ等の感情に振り回され、悩まされたはずだ。

 

今の若い日本人の私達の様に最初から怒りの感情が極力表に出てこない事態というのはやはり、不自然に思う。

怒りで問題を解決する事は難しいが、怒りや疑問が問題解決に取り組むためのきっかけになる。

 

何故私達の世代は怒らなくなってしまったんだろう?

私達は人として欠陥なのか?

 

危惧するのは、今の若い世代が、アメリカ軍の実像を知らずに、友達感覚でつきあってしまうことは、政府に上手に使われてしまうのではないかと心配だ。

CIAはもちろんそこから米軍に対する住民感情を操作できるだろう。

 

実際、辺野古の座り込みに若者はほとんど来ない。

 

怒ることがなくなった世代。

10年後、20年後、どうなるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

キャンプ・シュワブの異常な日々が日常となってしまった事への戸惑い

沖縄の基地問題で問われているのは本当は本土の日本人である。

辺野古埋め立ての土砂の八割は本土から、西日本からやって来る。

辺野古の埋め立ての推進者は日本政府であり、アメリカ政府である。そして、全ての日本人はその当事者である事を忘れてはいけない。

 

本土で護憲運動を行い、9条を守る運動をしても、日米安全保障条約日米地位協定によって沖縄は苦しみを背負い続ける。

日米安保とは=米軍の望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ、駐留させる権利である。

地位協定とは=米軍人・軍属日本国内での権利(憲法や法律に縛られない)である。

これが日本とアメリカの関係である。

 

そして、島の至る所に基地があり、そこら中で訓練する米軍の被害を被るのが沖縄である。不平等条約の犠牲者は本土の日本人ではなく、沖縄本島の人々となる。

 

此所に沖縄と本土の差がうまれる。

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辺野古の現地では...

県民同士、日本人同士が対立させられているのは良くない、という想いは皆同じだ。

それでも、島の未来を、命の海を、軍隊の犠牲者を、見過ごせない。

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毎日キャンプ・シュワブへ行き、辺野古の米軍新基地の工事車両を入れないためにゲート前に座り込みをし、警察に強制排除される日々を生きていると、なにか此所に来ない人達との間に大きなギャップができてしまうように感じる、それは私だけではないと思う。

 連日体を張っていると、何故もっと多くの人が此所に来てくれないのかと、いつも心の何処かで思ってしまう。

出口の見えない問題に、多くの県民は基地の問題に消極的になっている。

 

貴方は危機感を感じているだろうか?

国の様相がどんどんおかしくなってきていることに。

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この国には1億2649万人の人間が住んでいる。

 南の端っこの島の沖縄には144万人の人間が住む。

 

 

 

 

 

 

 

 

3.11 次の時代への選択

混沌とした時代の中で、人間が抱える様々な問題を突き詰めていくと、私たちは押さえようのない無力感に襲われる。

それは、正しい、ひとつの答えが見つからないからであろう。

が、こうも思うのだ。

正しい答えなど、初めから存在しないのだと。。。

そう考えると、少し胸がホッとする。

正しい答えを出さなくてもよいというのは、なぜかホッとするものだ。

しかし、正しい答えは見つからなくても、私たちは、その時代、時代にずっと問われ続けながら、なにかの選択をしてゆかなければならないのだ。

 

 

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宮城県名取市閖上(ゆりあげ)の中学は一階部分が津波にのまれ14名の生徒が犠牲になった。生き残った学生の大人たちへの悲痛な叫びだとおもう。

 

 

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福島県浪江町請戸地区だったとおもう。

地震の後、津波に町がのまれた。福島第一が爆発して避難指示が出され、生き埋めの人間の捜索は中止になった。

海岸に出れば第一原発の煙突が見える近さだ。

だけど、放射線量は驚くほど低く、0.1µ㏜位だった。

正しい情報が伝わっていれば、捜索も打ち切らずにすんだはずだった。

 

 

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人類はときに考えられないものを創造する。

この壁は東北の海岸線に延々に続く堤防だ。

津波に対する漠然とした恐れ、そして建設から生まれる莫大な利益。

人類が作り上げた壮大な物として、ピラミッドがあり、万里の長城がある。

私は、この堤防も壮大な歴史の遺物のひとつになるのだろうかと考えてしまった。

津波を防ぐといった意味からは、あまり意味のなさそうな、そして、その代償として、人と海を切り離してしまった事は、人間に大きな影響を残さざるを得ないだろう。

 

 

f:id:worldeyes2017:20180317145704j:plain浪江町請戸

 

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 被災者の言葉

 

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宮城県女川町

 

 

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地元のおじいさん。87歳

 

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福島県南相馬市小高区海岸

 

 

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福島県いわき市道の駅

 

 

f:id:worldeyes2017:20180317145815j:plain福島県飯舘村の牧場の馬

高濃度に放射能汚染された飯舘村は去年の三月末に除染は完了したとして村南一部を除いて、政府の避難指示が解除され、法的には住めるようになった。元々6000の人口の内400弱が戻ってきているという。

工事や除染関係者そして役場の人以外では更に少ないと聞いた。

子供を持つ親たちや、若年層の帰還は少ないそうだ。

 

細川牧場の細川さんは避難指示が出た後も村に残った。

家族同様の馬たちを見捨てられなかったからだ。

他の牧場の馬や牛たちの面倒も、避難した牧場主たちの代わりに見た。

しかし、多くの馬が、原因不明の病気で死んでいったと、細川さんは話してくれた。

 彼は放射能だよと云った。

 

七年が経過した福島の放射能問題の現状はあまりにも複雑だ。

福島に滞在した五日間、毎日地元紙の二紙に目を通した。

 

その印象としては、放射能を必要以上に恐れる必要はないといった内容であったように感じた。農産物や海産物の出荷の事、子供の甲状腺検査結果の事、食品や空間線量、土壌汚染の事もデータを使い大丈夫であると記載されていたように思う。

 

科学者でない私達は、データなどを出されて、大丈夫だと言われると、そうか、と思ってしまう。

しかし、一方で、放射能問題の危険性を訴える学者をはじめ、警鐘を鳴らす人は大勢居る。しかし、新聞や、県内の公共機関の広報では、それらの意見を目にすることは無かったように思う。

 

国、地方行政、原子力機関(国内・国際的)は安全性を一生懸命宣伝している。

安全性を一辺倒に宣伝する姿勢が逆に、私には疑わしく思ってしまう。

県民の人達はどの様に思っているのだろうか。

 

心では不安に思っていても、口には出さない、のだろうか。

 

数年前にこんなことがあった。

東北を慰霊と脱原発を祈って歩く行進で約10名ほどが、南相馬市の小高区にある、住民支援や情報交換の場を提供するプラットホームという場所に行った時だった。

 

県外からの参加者も多く、放射能の問題に関心が高い人が多かった。

小高区は当時、まだ避難解除が出されていなかった、避難解除準備区域であり、これから戻ってくる人達のために、準備を進めていた。

 

そんな時に、行進者たちが、始めから放射能の事だけを聞くのに、そこの職員の人は、いらだちを隠さなかった。

 

これから帰還し、住もうと決めた人達はそれぞれが、それぞれに考え、悩み、戻ってくることを決める。

住民にとっては問題は放射能だけではない。

そこには、歴史、田畑、家、墓、コミュニティがあった。

それら、様々なものを考慮し、天秤に掛け、ある人は、あの人が帰るなら自分も帰ると決心する。

 

福島県外から訪れる私達は、福島の人達がすでに近隣の人達とは話題にできなくなってしまった、放射能の問題を話すというは、大切であり、重要なことであると思う。

 

外からの声がなければ、福島で放射能の問題を心の中では心配している人達は孤立してしまう可能性がある。外から来る、ある意味、空気を読めない、部外者が放射能の事で発言することで、福島県内でも、全くのタブーとなる事を防げるのだろう。

 

3.11後、多くの人が、現代社会の在り方、文明とはなにか、人間とはなんなのかを考えざるを得なかっただろう。

それは、覚醒となり、目覚め、気づきとなって、多くの人を、自然と人間の関係性を考えさせられた。

 

あきらめることなく、一日、一日を大事に生きなければ改めておもう。